アオサギを議論するページ

ヘッチャエバ

北海道が和人によって探検されたごく初期の記録に「蝦夷拾遺」というのがあります。江戸中期、天明年間に著されたもので、これをたまたま興味本位で読んでいたところ、サギのアイヌ名が載っているのに気付きました。「ヘッチャエバ」というのがそれです。サギのアイヌ名を記したものとしてはおそらくこれが最初のものでしょう。アイヌ語は地域によってさまざまなバリエーションがありますし、同じ語でも音をカタカナ表記するとばらつきが出るので、単一の語で表される単語はあまりないのではと思います。アオサギの場合も、「ペッチャコアシ」、「ペッチャコアレ」、「ペッチャエワク」などいろいろな呼び名があります。蝦夷拾遺の「ヘッチャエバ」もたぶんこれらと同じ系統の呼び名で、おそらくは「ペッチャエワク」とほぼ同じかと思います。音を書き留める人によってこれらはどちらにもなるでしょうから。

そんなことで、改めてこれらの呼び名の意味を調べてみました。すると、ペッチャの後につづく「エワク」(おそらく「エバ」も同じ)に意外な意味があることを知りました。これまでは「エワク」は単純に「住む」という意味で、川岸に住んでいる鳥のことなんだなと思っていたのです。ところが、「アイヌ語沙流方言辞典」によると、「エワク」というのは、ただ住むのではなく、神が住むことを言うらしいのです。こうなるとちょっと物々しいことになってきますね。北海道には、コタンクルカムイ(シマフクロウ)やサルルンカムイ(タンチョウ)など、カムイ(神)の名を冠した鳥たちがいますが、アオサギはカムイの名こそもたないものの、川岸に住んでいらっしゃる神様、のような意味になるのではないかなと。もっともこれはアイヌ語に門外漢の私が勝手に類推しているだけで信憑性のかけらもありません。でも、もしこれが本当であったとしても私はさほどの意外性は感じない気がするのです。ああ、やっぱり、と思う方も多いのではないでしょうか。

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

2024年は辰年ということで、ドラゴンとアオサギを合体させてみました。鳥の中でもアオサギは恐竜っぽさがまた格別なので、比較的すんなりと馴染んでくれたように思います。ちなみに、モデルになってくれたのはふ化後3週目くらいのヒナです。

ところで、アオサギに恐竜っぽさを感じるのは、彼らの顔立ちやしぐさがたまたま恐竜のそれに似ているというだけではありません。実際、アオサギを含むサギ類というのは、鳥の中ではとても古いタイプの生きもので、恐竜から進化して間もない頃の原始的な姿形を留めているのです。この世にサギ科が最初に出現したのは、3800万年から6000万年前だと言われています。恐竜の大量絶滅が6550万年前ですから、サギ科出現を6000万年前だとすると、それから間もない時期にすでに彼らは地上に存在していたのですね。もっとも、当時のサギたちがそのままの姿形で残っているわけではなく、アオサギ属、コサギ属、ゴイサギ属といった現在私たちが見かけるサギのグループが出現したのは今から700万年くらい前だとされています。これだと比較的最近のことのように思えますが、私たちヒト属が世に現れたのがせいぜい200万年前のこと、私たちに較べれば彼らのほうがよほど先輩なのです。タイプが古い、進化してないということは決して悪いことではありません。生きものは環境が変われば進化して新たな姿形や新たな行動様式をもつようになりますが、さらにまた環境が変わるとその多くが新たな環境に適応できず滅び去ってしまいます。古くから同じ見かけ、やり方で変わらずに生きてきてるということは、どんな環境にも適応できる能力が備わっているということでもあるのです。万能だからわざわざ変わる必要がないということなのですね。

というわけで、今年もサギ類の称賛で幕が開けました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

「君たちはどう生きるか」、アオサギを巡る雑感

7月14日に公開されたばかりの宮崎駿監督のジブリ作品、「君たちはどう生きるか」をさっそく観てきました。ジブリとしては事前情報を仕入れずに見て欲しいということなので、まだ観てない方はこの先は読まれないほうが良いかもしれません。もっとも、アオサギについての感想なので映画の内容にはほとんど触れていません。

というわけで、この映画、日本語のタイトルは上のとおりなのですが、英語版のタイトルは「The boy and the heron(少年とアオサギ)」と、これはもう他に想像しようがないほど単刀直入です。実際、少年とアオサギを中心に物語りが展開していきます。ただ、映画のポスターを見て勝手にイメージを膨らませると間違いなく裏切られます。私は多少なりともどこか神秘性があって先輩感のあるキャラクターを想像していたのですが、本編ではトリックスターのような役回りでしたね。まあでもあれだけデフォルメされていると、アオサギを見ているという意識はほとんどなく、自分のもっているイメージとのギャップに戸惑うことはありませんでした。顔は黒色の部分がアオサギというよりナンベイアオサギ(Cocoi Heron)のようでしたし、あの飛びながら魚を掬い取るというハサミアジサシ風の採餌方法はちょっとあり得ないかなと。まあアオサギのことですからひょっとするとやりかねないかもしれませんけど。逆に、アオサギらしさを感じたのは、中の人をゴクンと一呑みにしモノが喉を通っていくときの表現、それと何より主人公の部屋の窓から飛び立つ場面が印象的でした。飛び立つ前に脚を屈めてやや腰を落とすあのモーション、あっ、それちょっとやばいのではと思ったら案の定でした。あの予感の感じさせ方は実際にアオサギをよく観察していないと描けないものだと思います。

さて、問題はなぜアオサギなのかといういうことですね。あの鳥がアオサギでなければならい理由は映画では説明されてませんし、もしかしたらとくに理由はなく他の鳥や生きものでも良かったのかもしれません。ただ、古来、異世界を結ぶ役割には往々にして鳥が選ばれてきたことを思うと、ヘビやバッタやクジラを登場させるよりはアオサギのほうが理にかなっているのかなとは思います。けれども、私としてはそれが他の鳥でなくなぜアオサギなのかという部分にどうしても拘りたい。ひとつの推測としては、鷺を「路」+「鳥」とみなすことで、主人公に進むべき道を指し示す役として選ばれたのかなと。これについては、Twitterの@_a_n_o_a_nさんが私の昔の記事を発掘してくれたお陰で気付くことができました。ありがとうございます! その記事「鷺の漢字」では鷺の漢字の成り立ちについて白川静著「常用字解」を引用しています。

各はさい(注1)(神への祈りの文である祝詞を入れる器)を供えて祈り、神の降下を求めるのに応えて、天から神が下ることをいう。それに足を加えた路は、神の降る「みち」をいう。[説文]二下に「道なり」とある。異族の人の首を持ち、その呪力(呪いの力)で邪霊を払い清めたところを道といい、道路とは呪力によって祓い清められたみちをいう。
(注1):「さい」という字はアルファベットのUの真ん中にはみ出さないように横棒を引いた形。

道は道でもただの道ではなく神聖な意味が込められているのですね。このことは「古事記」に鷺が登場する場面からもはっきりうかがい知ることができます。アメノワカヒコという神様の葬儀の場面で、サギは箒をもち穢れを掃き清める役を受けもっているのです。そうであれば、映画のアオサギも異世界とつながる道を掃き清め、通れるよう道案内する役だったのかなとも思われてきます。もっとも、漢字で示される鷺という字はサギ類の総称であってアオサギとは限りません。古事記に現れる鷺は、その役回りを考えるとむしろ清廉潔白なイメージのあるシラサギが想定されていたと見るほうが自然でしょう。けれども、シラサギはキャラクターとしては融通が利かないというか、どうしても「白き衣の者に導かれ…」みたいなありきたりな展開になりがちです。そこへいくとアオサギは善にも悪にもなり得ますし、多面的な役を変幻自在にこなすことができます。トリックスターとしてはまさに打ってつけのキャラクターと言えるかもしれません。アオサギ、名役者としての本領発揮といったところでしょうか。

鵜鷺年

あけましておめでとうございます。

干支といえば、本来、いずれか一種の動物と決まってるものですが、今年は二種いっぺんの大盤振る舞い。お目出度いことです。というわけで、今回はウとサギ一緒に登場してもらいました。じつは以前の北海道ではこの二種の組み合わせはあり得ませんでした。というのも、カワウが北海道に進出してきたのは2000年前後のことだからです。それから四半世紀弱、カワウは道内あちこちのコロニーでアオサギと同居するようになり、写真のような光景はいまや道内でも珍しくなくなりました。毎年変わらないように見える鳥たちの暮らしですが、一年一年刻々と変わっているんですね。なお、写真は5、6年前に八雲のアオサギコロニーで撮ったものです。

さて、今年はもしかするとアオサギの巣の近くにカメラを仕掛けて子育ての様子をライブ中継できるかもしれません。3月下旬以降の話ですが、うまくいきそうだったらまたここでお知らせしたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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