アオサギを議論するページ

若いカップル

北海道の場合、4月というのは冬から春への過渡期。その過渡期もそろそろ終わろうとしています。札幌の隣の江別コロニーではまだ北向きの斜面に雪が残るものの、木々には緑の新芽が目に付きはじめました。

ひと月ちょっと前は営巣しているところがまだ数十巣だったコロニーも、現在は160を超えるほどの巣の数になりました。これで9割5分くらいは揃ったのではないかと思います。これからは増えても10巣ていどが限度でしょう。

そして江別コロニーでは、今まさにヒナ誕生の季節を迎えています。私が最初にヒナのサインを確認したのは4月27日で、わずかに聞こえるか細い声でそれと分かりました。まだまだ小さくかすかな声ですから、よほど聞き耳を立てていないと気付かないくらいです。おそらく、生まれて3日と経っていないでしょう。ヒナはまだ小さすぎて姿は見えませんが、ようく見ていると、親が巣の中に首を突っ込んで餌を吐き戻していたり、ヒナの食べ残しを再び飲み込んでいるのを目にすることができます。これから連休にかけて、そうした巣がどんどん増えてくるでしょうね。

この時期に面白いのは、若いカップルが新たに営巣を始めることです。右の写真にもひと組み、とんでもなく若いペアが写っています。左の2羽がそうで、上で翼を半ば開いているのが雄、その下で前屈みになっているのが雌です。雄はすっきりきれいな成鳥ですが、雌のほうは完全な1年目幼鳥です。白黒のはっきりした色は出ておらず、体全体がまだほとんど灰色です。

一般にアオサギの繁殖は2年目からと言われています。けれども、まれにこんなふうに1年目から繁殖を試みることがあるんですね。2年目でも滅多に見ることは無いので、1年目というのはかなり珍しいと思います。たぶん、アオサギで1年目幼鳥の繁殖例はまだ報告されていないはずです。興味のある方はきちんと観察すれば論文に発表できると思いますよ。ちなみに、江別コロニーでは昨年も1年目幼鳥の営巣が確認されています。残念ながら、その巣はかなり見にくい所にあったため、葉が茂ってからはどうなったか追跡できませんでした。今回はとても見やすいところで営巣しているので幼鳥の雌がいればすぐ分かると思います。ただ、問題なのは若いつがいは子育てを上手くやれるとは限らないこと。私がこれまで見てきた範囲で上手く営巣を続けた若いペアはひと組もありません。遅かれ早かれどこかで失敗してしまいます。一番長く営巣を続けたところでも、ヒナが孵化したと思われる頃までしかもちませんでした。生殖能力はあっても子育てするにはまだまだ未熟ということなのでしょうね。写真のペア、今のところは交尾もし、巣もそれなりのものが作られているようです。さて、この先、どこまでがんばれるでしょうか。

ヒエログリフ

ベヌウという鳥のことが知りたくていろいろ調べているうちにヒエログリフにはまってしまいました。

ベヌウが何者なのかはとりあえず置いておいて、まずはヒエログリフ。ヒエログリフはご存知のとおりエジプトの象形文字です。その文字数は何百何千とあって、鳥を象ったものだけでもかなりの数があります。右の絵もそのひとつで、見てのとおりアオサギです。このアオサギは頭の後ろに特徴的な冠羽があるのでアオサギ以外の鳥と間違うことはないですね。胸の飾羽もさりげなく描かれていますし、これほどデフォルメしているのに全体のフォルムが崩れず、しかもアオサギの特徴を細部まできっちり捉えているのは見事です。

面白いことに、このアオサギの文字には読みがありません。文字で書かれてはいるものの発音できない、いわばただの印なのです。では何のための印かというと、前に置かれている文字の意味をこれによって決定するのだそうです(決定詞とか限定詞とか言うそうです)。といってもこれでは何のことか分かりませんね。そこで、具体例として次のヒエログリフに登場してもらいましょう。

左の絵、これはちゃんとしたひとつの単語になっていて、もちろん読みもあります。まず読む方向ですが、これがまた面白いのです。ヒエログリフというのは横にも縦にも書ける上に、横書きの場合は右からでも左からでもどちらでもOKです。そして、その向きは鳥や人の顔がどちらを向いているかで決まります。なんと単純明快で融通の利くシステムなのでしょう。素晴らしいです。というわけで、この場合は鳥が左向きに描かれているので左から右へ読むわけですね。

最初に出てくるのが足です。これは足単独でひとつの文字を表しており、下の波線はまた別の文字になります。順番に右に並べて書けばよさそうなものですけど、そうすると隙間が空きすぎて見栄えが悪くなるのでしょう。神聖文字と言われるぐらいですから、意味さえ伝わればいいというものではないのですね。

では、文字をひとつひとつ見ていきましょう。まず足ですが、足が描かれているからといって足を表しているわけではありません。この辺がややこしいところです。ヒエログリフには、描かれている形そのものを表す表意文字と描かれているものに関係なくただの音を表す表音文字が入り交じっています。日本語で漢字と仮名が一緒になっているようなものですね。この足はというと、表音文字のほうで音だけが示されています。

この足記号の音はアルファベットではbに相当します。もっとも、エジプト語の発音と現在のアルファベットの発音は厳密には違いますから、おおよそbに近い発音という程度なのでしょう。つづいてその下にある波線、これはnになります。これらふたつは絵とアルファベットが一対一に対応するケースです。その右の丸い壺は先のふたつとはちょっと違っていて、この壺ひとつでnとwの2語をいっぺんに表します。こういう例は多くて、2語にとどまらず3語を一度に表す文字もあります。そんなわけですから、アルファベットに比べるとヒエログリフの文字の種類は格段に多くなるのです。次に、その右の毛をむしられたような鳥。これはウズラのヒナを象ったものだそうでwを表します。これもまた足や波線と同じくヒエログリフの基本的な文字のひとつです。ということで、以上を続けて読むとbnnwwとなります。ただ、ここでの波線とウズラは壺のふりがなとして使われているだけで実際には読まないのだそうです。なので、正解はbnw。そう簡単には読ませてくれないということですね。なんせ神聖文字ですから敷き居が高いのです。

ではいよいよアオサギの説明です。このアオサギは前に置かれた言葉の限定詞として働くということは先に述べました。ここではbnwという語がアオサギのイメージで限定されているわけです。でもなぜわざわざ余計なイメージを付与されなければならないのでしょうか? なぜbnwだけではダメなのでしょう? じつはこれ、bnwという語が複数の意味を持つことに問題があるのです。いわゆる同音異義語ですね。これは日本語に置き換えて考えてみるとすぐ理解できます。たとえば、日本語の「はし」には複数の意味があって、「はし」とだけ書けば、橋、箸、端のどれを指しているのか分かりません。漢字で書いてはじめて分かるわけです。ヒエログリフの場合も同じで、表音文字だけが並んでいると意味が分からない単語がしばしば出てくるのです。そこで、アオサギのような限定詞が登場して、この単語はこの意味だということを親切に教えてくれるわけですね。

それでは、このbnwの綴りと後ろに置かれたアオサギの記号、これ全部で何を意味するのでしょう? そうです。これがベヌウなのです。bnwの後ろにアオサギの記号を置くことでbnwがアオサギに関連のある言葉に限定されるわけです。じつはベヌウというのはもともとアオサギがモチーフになった鳥なので、bnwにかかる限定詞としてはアオサギほど相応しいものはないのです。

ベヌウは正確にいうと鳥ではありません。神々の暮らす領域に住んでいて、まあベヌウ自身も神様の一員のようなもです。長くなったのでベヌウについてはまた改めて書きたいと思いますが、最後にベヌウの発音についてひと言。ベヌウはベンヌと書かれることもあり、呼び方は統一されていません。というのは、ヒエログリフが子音のみを用いていて母音が略されるからなんですね。ヒエログリフで書かれたエジプト語は紀元前のはるか昔に絶滅していますから、今となっては当時の発音は部分的にしか分からないのです。あとは想像。だから、日本語でもベヌウだったりベンヌだったり、また、英語も同じくbenuだったりbennuだったりします。各自お好みで使ってくださいといったところです。

なお、ここで紹介したベヌウの文字は辞典のようなものから抜き出したものではなく、ヒエログリフについて私が理解できる範囲で、知っている表記規則をもとに推測で書いたものです。全くの素人なので、もしかしたらどこか間違っているかもしれません。もし、間違いに気付いた方がいらっしゃればご指摘いただけると有り難いです。

婚姻色

アオサギの婚姻色はこの時期に特有のものです。遠目にはそれほど違いがあるように見えませんが、実際はかなりの色変化があります。この婚姻色、あまりに鮮やかなので、とくに目からくちばしの辺りだけ見ると熱帯の鳥でないかと思うほどです。そんなアオサギですから、飛来当初は彩度の低い雪景色の中でいかにも場違いな感じになりそうです。しかし、意外なことに、白い雪をバックにした婚姻色のアオサギはことのほか美しいのです。もしこれが、体全体が派手なのであればそうは見えないと思います。全体としてシックな色調で抑えられているからこそ、婚姻色もアクセントになって映えるのでしょうし、雪の背景でも自然な感じで馴染むのでしょう。

婚姻色で色が変わるのは、目、目元、くちばし、脚、つまり羽毛で覆われず露出しているところ全てです。このうち、目、くちばし、脚は黄色から朱色に変わります。この色はべたっとした色ではなく、たとえば、くちばしは根元のほうの朱色から先端のほうの黄色へとグラデーションがかかっています。より正確な色表現で言えば、牡丹色から梔子(くちなし)色といったところです。また、目元の色は黄色から青紫色に変わります。これも青藤色というのがより正確かもしれません。

この婚姻色はつがいが形成される時期がもっとも鮮やかです。ただ、全ての部位が同じように発色するわけではないのですね。とくに目というか光彩の部分については赤くなるのはごく限られた時だけのようです。他の部分が婚姻色に変わっているときも目だけは普通に黄色かったりします。じつはこの辺の詳しいことはまだ十分研究されてなくて私もよく分かりません。分からないのですが、気持ちや感情がとくに高ぶっている時に赤くなる、これは確かだと思います。

写真はご覧の通り、右が平常時の黄色い目で、左が尋常ならざるときの真っ赤な目です。赤い目のほうは何かただ事ではない雰囲気がびしびしと伝わってきますね。

あれからひと月

地震と津波の日からひと月が経ちました。こちらにアオサギが渡ってきたのがちょうどあの頃。今年は春の嵐に見舞われることなく、比較的順調に営巣活動が行われています。今では抱卵態勢に入るサギも徐々に増え、コロニーの雰囲気は少しずつ落ち着いてきたようです。

今回は、震災に関連してこれまでに感じたことを備忘録的に書き留めておこうと思います。とてつもない人的被害があった中で、そのことを差し置いて震災をアオサギに関連づけて書くことにはひと月経った今でもまだ抵抗があります。けれども、アオサギも人と同様、被災者であることは間違いありません。こういうサイトをやっている以上、やはり無視するわけにはいかない、そういう思いで書きます。

あの日の地震と津波はいともあっさり人々の生活の場を更地に変えてしまいました。人間の存在など地球はこれっぽっちも気にかけてないということを強烈に思い知らされる出来事でした。その点では人もアオサギも同じ。地球から見れば、どちらも地表面にしがみついてかろうじて生きているどうでも良い存在に過ぎません。どうでも良いかどうかはともかく、人もアオサギも同列であることは間違いないと思います。人は普段、アオサギや他の生き物に対して、あたかも自分たちがその支配者であるかのように振る舞っています。けれども、いざ地球が相手となると、自分たちが地上での優位性の拠り所としていたものは全て剥ぎ取られて、アオサギや他の動物たちと何ら変わらない、人間というただの生き物として対峙せざるを得なくなるんですね。そうなれば、飛んで逃げるという選択肢があるアオサギのほうがむしろ素質的には優れていると言えるかもしれません。結局、我々人間の優位性をどこかに認めるにしても、それは特定の条件下でのみ意味をもつ相対的なものでしかないんですね。ただ、そういう特定の条件がたまたま長く続くものだから、人間の優位性を絶対的なもののように勘違いしてしまう。それは大間違いです。

「絶対」と言えば、原発が安全にからめてこの言葉を使うことにずっと腹立たしさを覚えてきました。本来、絶対という言葉は確率の問題ではないはずなんですね。万一という仮定が入る時点でもはや絶対ではない。しかも、原発事故は万一どころか、世界の原発四百数十基(箇所数でいうと百数十ていどでしょうか)のうちすでに3ヶ所で重大事故が発生し、小さな事故はしょっちゅうというような大変な高確率で起きているわけです。よくこれで絶対安全などと言えるものです。今回これだけのことが起こってなお中途半端な危機感しか持てないようだと本当に末恐ろしいことになると思います。

さて、アオサギのことです。彼らは20キロ圏外への避難指定など聞き入れてはくれません。今この瞬間にも、福島第一原発のすぐ傍らで毎日多量の放射線を浴び、何の恐れもなく汚染された魚をぱくぱく食べているかもしれません。ひと月前、彼らはちょうど渡りの最中でした。私が普段見るのは北海道のアオサギですが、中には福島の太平洋岸を北上し、被曝しながらこちらに辿り着いたサギもいるかもしれません。こう言うと被災されている方には本当に気の毒ですが、原発事故によって我々人間が困るのは自業自得です。しかし、それはアオサギや他の生き物には関係のないこと。彼らのことはいったい誰がどうやって責任をとってくれるのでしょう? 本当に大迷惑な話です。

地球に優しく、という言葉が大嫌いです。何と傲慢な言葉なのだろうといつも苦々しく思ってきました。だいたい、その反対のことをやっているところほど、より声高にこのフレーズを叫んでいます。地球に優しいクリーンなエネルギーなどと言ってるところはその最たるものでしょう。何でも管理できるという、その上から目線の態度が間違っているのです。地球レベルで考えれば、所詮、人もアオサギも同列に並べられる、ただのひ弱な生き物に過ぎません。我々がそのことを謙虚に受け入れることがなければ、同じ過ちは何度でも繰り返されると思います。人類が馬鹿でないことを願いたいものです。

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