去年の暮れ、アオサギの鳥獣管理行政の実態をまとめた報告書を公開しました。報告書の内容については以前ここで簡単に紹介したとおりです。ともかく、アオサギの不要な駆除が全国で横行していること、それが杜撰な行政によって助長されていることを少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。あれからほぼ一年、この件については想像以上に何の手応えもありませんでした。
もちろん、国や都道府県、一部の市町村には改善策を添えて要望書は出しています。ただ、私としては行政には端から何の期待もしていません。彼らと直に話してみて、理念やビジョンのある鳥獣管理を行っている人はほんの一握りしかいないことが痛いほど分かったからです。どの担当者も個人として一生懸命働いていることは疑いません。しかし、鳥獣管理を行う上で重要なこと、たとえば野生動物と人との関係性の認識や、生命に対する哲学的、倫理学的な考察、共生のための保全生物学的なアプローチといったことに彼らが関心をもっているとはどうしても思えないのです。それどころか最低限の科学的方法論さえとられてなかったり、果ては鳥獣保護法さえ碌に理解されていなかったりというのが実情でした。
それでも業務自体は支障なく動いていくわけです。もちろんそれで良いというわけではなく、そのつけは今のところ全部アオサギが払っています。アオサギだけに特別なことが起こっているわけではありあません。他の野生動物も多かれ少なかれ似たような状況に置かれているはずです。こんな理不尽なことが問題視されず放置されてよいはずがありません。
とはいえ、行政への働きかけには自ずと限界があります。とくに事務的な問題でなく、上述したような意識の欠如が問題である場合、彼らにあれこれ言ったところで暖簾に腕押しでしょう。結局、彼らの意識は我々の意識の反映でもあるわけですから、世間の意識が変わらないことには彼らの意識は変えられないということだと思います。
ところが、我々の意識はどうかというと、こちらも問題で、ほとんどの人はアオサギに駆除の問題があることすら気にかけていません。そればかりか、アオサギという名すら知らずに生涯を送る人も多いことでしょう。これはアオサギとのトラブルが極めて局所的な問題であることに原因があります。被害を被るのは限られた地域のわずかな人たちです。たとえば、田んぼの所有者であったり、川にアユを放流している漁協であったり、釣り堀や養魚をしている人たちであったり、それにコロニーのすぐ傍に住んでいる人たちもそうですね。アオサギは全国各地にいますが、それでもこのようなトラブルは全体から見ると局所的な特殊事例に過ぎません。トラブルに直接関わりのある人もごくわずか。他の大多数の人たちは、普段アオサギとは何の関わりもなく、何が行われているかを気にかけることもなく暮らしているということです。
しかし、本当に我々はアオサギとそこで行われている駆除に関わりはないのでしょうか? 田んぼに入るアオサギが駆除されるのは、彼らが稲の苗を踏みつけるからで、米を食べる私たちがいなければアオサギが殺されることもありません。養魚場で殺されるアオサギについても同様で、私たちが養魚池で育てられた魚を食べることがなければアオサギは殺されません。また、自然河川でアオサギが駆除されるのは、漁業者が遊漁用に放流した魚(主にアユ)をアオサギが食べるからです。しかし、これも釣り人がいなければ、アオサギが殺されることはないでしょう。つまり、アオサギと直接利害関係のない人たちであっても、意識しているかしていないかにかかわらず、多かれ少なかれアオサギの駆除に関わりをもたざるを得ないということです。
そういう意味では、我々ひとりひとりがアオサギに対する加害者です。彼らの死に対する責任は、程度の差こそあれ我々ひとりひとりが負うべきものであり、だからこそ、その責任について各個人が真剣に考えていく必要があります。自分は関係ないからという認識を大多数の人々がもっている限り、社会全体の考え方は変わっていきません。見かけ上、直接の関わりがなくても結果的にはあらゆるものにコミットすることになる、それが現実のあり方なのだと発想を変える必要があります。これは何も特殊なことを言っているわけではありません。よくよく考えれば当たり前の話です。
もう一例。コロニーの近くに住んで、アオサギの糞の臭いや鳴き声に悩まされ、それが理由でアオサギが駆除される場合があります。これこそ、そこの人たちとアオサギだけの問題と思われるかもしれません。しかし、こうした場合もその周りの社会はそのことと決して無関係ではいられないはずです。なぜなら、トラブルに遭っている人たちのアオサギへの関わり方、あるいは野生動物についての生命の捉え方というのは、個人の個性が前面に出るにしても多分に社会通念に影響されているものだからです。普段の我々ひとりひとりの言動がその社会通念をつくっていきます。そういう意味では、現場にいない大多数の人たちもそこで行われる駆除に対して責任がないとは言えません。
少し話が飛びますが、以前、旭山の動物園からフラミンゴが脱走したとき、そのフラミンゴは「落とし物(遺失物)」として警察に届けられました。いかに法律用語とはいえ、この言葉からは生命ある存在に対する敬意が欠片も感じられません(旭山動物園に非はありません)。そういう特殊な例を挙げるまでもなく、メディアなどでは「アオサギが大発生した」とか「サギが大量に住み着いた」などという言葉がいつも平気で使われています。こういう不適切な言葉の使われ方がアオサギにとってマイナスに影響するのは間違いありません。些細なことですが、こういったことに目を向けるのもアオサギに対するひとつの責任のとり方だと思います。そして、むしろこうした身近にできることのほうが状況を効果的に改善できるのではと思うのです。
安易な考えで駆除申請する人や、いい加減な鳥獣管理行政に問題があるのは確かです。しかし、いくら彼らを責めたところで根本的な問題は解決しません。この問題は、突き詰めれば、我々ひとりひとりにその原因があるのだという認識がどうしても必要です。個人個人がこのことを自覚し、自分の責任として、身近なところから少しでもアオサギへの負の影響を減らすように行動していけば、アオサギの保全状況は僅かずつでも根底から改善されていくはずです。結局のところ、アオサギと共生できるかどうかは、私たちが加害者としての認識をもてるかどうか、そしてその認識を社会で共有できるかどうかにかかっているような気がします。