個体識別で分かること
二月も半ばになり、気温はまだまだ低いものの、晴れるたびに日差しの強さを身に沁みて感じるようになりました。こうなると冬ももう長くないですね。北海道あたりだとアオサギたちがコロニーに入りはじめるのはまだひと月近く先になりますが、本州以南ではすでにシーズンインしているところもあるようです。ただ、先日来の大雪でまた一からやり直しというところも多いかもしれませんね。
ところで、営巣は早く始めればそれだけ早く終わるというわけではありません。つがい単位で見ればどの地域でも営巣期間にそれほど違いはありませんが、コロニー全体で見るとその長さは地域によってずいぶん異なります。たとえば北海道の平地だと3月下旬に始まって7月いっぱいでほぼ終わってしまいます。4ヶ月ちょっとです。ところが、東京あたりだと1月に始まって9月に入ってなお残っていることもあるようなのです。そこまで長いとアオサギもご苦労なことですが、アオサギを観察している研究者も大変です。
今回はそんな長丁場の観察が必要な東京のコロニーで90年代半ばからずっとアオサギの観察を続けている白井さんの研究を紹介したいと思います。白井さんは「アオサギネット」を管理されている方なので、当サイトに来られる方ならそちらのほうですでにご存知かもしれませんね。今回ご紹介するのは山科鳥学誌に以下のタイトルで掲載されている論文です。
Shirai, T. (2013) Breeding Colony Fidelity and Long-term Reproductive History of Individually Marked Wild Grey Herons. 山科鳥学誌(J. Yamashina Inst. Ornithol.). 44: 79-91.
論文では、アオサギのコロニーに対するフィデリティ(忠誠度。要はあちこちのコロニーを転々とするのか、あるいはひとつのコロニーに執着するのかということ)と、個々のアオサギの繁殖の歴史(個々のアオサギの営巣活動が年々どのように変化していくかということ)が明らかにされています。この研究が魅力的なのはタイトルに書かれているIndividually Markedという部分。アオサギ1羽1羽が個体識別されているのです。ご想像どおりアオサギはそうやすやすと捕まえられる鳥ではありませんから、個体を区別して研究した報告はそう多くありません。とくに国内ではほぼ皆無といっていいでしょう。
この点、白井さんの場合はコロニーの立地環境が動物園だったことがアオサギの捕獲に好都合だったようです。なんでもタンチョウやコウノトリなどが飼われている池のほとりに6.5×4×2メートルのケージをつくり、そこに入ってきたアオサギを捕まえたのだとか。普通はそんなものをつくっても決して入ってこないでしょうけど、普段からペンギンと一緒に餌を食べているような特殊な環境のサギたちですから、ケージのような人工物にもあまり抵抗がなかったのでしょう。ともあれ、そんなことで成鳥19羽と幼鳥50羽に脚輪が付けられています。成鳥の捕獲数にくらべ幼鳥の捕獲数が圧倒的に多いのは幼鳥の警戒心が薄いせいかと思われます。これは予想どおりですね。なお、コロニーは毎年200つがい前後が営巣しているようなので、これだけ標識しても個体識別されているのはごく一部ということになります。
(追記:成鳥の捕獲数が少なかったのは、同じアオサギが何度もやって来て他のアオサギに入る余地を与えなかったためだと白井さん本人から連絡がありました。そのアオサギにとっては捕まる危険を冒してまで来る価値のある魅力的な餌場だったのでしょうね。)
さて、研究の内容です。まずアオサギは毎年同じコロニーに戻ってくるのかという疑問。これは気になっていた方も多いのではないでしょうか。とくにそれほど離れてないところにいくつもコロニーがあるような環境ではとりたててひとつのコロニーに固執する必要もなさそうに思えます。鳥の場合、別のコロニーに移ろうという意思さえあれば、それを制限する社会的制約も何も無いですからね。荷物も無いですし。さて、実際はどうなのでしょうか?
右の図は論文にあったものをかなり簡略化したもので、脚輪を付けたアオサギがコロニーに戻ってきたかどうか、また営巣したかどうかについて毎年の状況を示したものです。左側が幼鳥、右側が成鳥です。標識した翌年以降の状況を個々のアオサギごとに横一列のブロックで示しています。これを見ると幼鳥と成鳥の違いは明らかですね。幼鳥は50羽のうち12羽しか戻ってきていません。もちろん戻りたくても戻れない事情(途中で死亡など)もあるかと思いますが、幼鳥の場合は敢えて他のコロニーに移動する場合もあるように思います。
それにしても、50羽のうち2年後に繁殖を開始(通常、アオサギの繁殖は2年目から)したのがたった4羽というのは予想外の少なさでした。巣立ちまで生き延びれないヒナも多いですし、巣立ちに成功してもこんな状況です。アオサギにとって繁殖まで漕ぎ着けるというのは相当ハードなサバイバルなんだなとつくづく思います。
一方、成鳥のほうは幼鳥にくらべるとずいぶん安定しているように見えますね。標識した19羽のうち戻って来なかったのは1羽だけです。まあ、前年の子育てが上手くいっていれば次の年に敢えて見ず知らずの環境に飛び出していく理由も無いわけですからこれは理に適った行動といえるでしょう。いずれにしても、繁殖が上手くいっている成鳥はかなり長い期間、同じコロニーに腰を落ち着けると言えそうです。
さて、そんなふうにコロニーに対する忠誠度の高いアオサギですが、つがい相手に対してはどうでしょうか? これはひとつ目の疑問よりさらに気になるところですね。一般に、アオサギは繁殖期が終わればつがいはばらばらになり、翌春までは基本的に単独で暮らすとされています。そして、春になるとどのアオサギも求愛ディスプレイでつがい相手を見つけるわけです。なので、一見、毎年新たにつがいがつくり直されているように思われるのですが…。さて、実際はどうなのでしょう?
右の図はこれも相当簡略化したものですが、つがいがどのように変わるかあるいは変わらないかを示しています。ここでは4つのペアに登場していただきました。青が雄、赤が雌で、?で表示しているのはペア以外のアオサギです。これを見て分かるとおり、基本的につがいというのは相手がいなくなるまで変わらないようです。たとえば、一番上や二番目のペアはそれぞれ相手がいなくなったので他の相手を選らんだように見えます。これは一番下のペアの3年目の状況も同じですね。
しかし、ことはそう単純ではありません。下ふたつのペアは去年までのつがい相手が同じコロニーにいるにもかかわらず他のアオサギとつがいになっています。かと思うと、その翌年はまたそれまでの相手と一緒になっています。これはどういうことなのでしょう?
これは私の勝手な想像ですが、もし初めからそれまでのつがい相手がいることを知っていればこのようにはならないのではないかと思います。アオサギの場合、コロニーに飛来するのはけっこうな時間差がありますから、早くから来ていた雄がなかなか来ない雌に痺れを切らして(つまり、もう死んだものと思って)別の雌を娶る。遅れてきた雌は、昨年までつがい相手だった雄が他の雌と一緒になっているので仕方なく他の雄を探す。と、この通りではないかもしれませんが、これに類することはけっこうあり得ると思うのです。ともかく、そうしたハプニングはあるものの、何事も無ければつがいの絆はそう簡単に変化するものではないと言えそうですね。
なお、最後のペアのブロックの幅が狭くなっているのには理由があります。このペア、じつは1年に2度ずつ営巣しているのです。こんなことが普通にあるとはびっくりですね。白井さんは別の年に別のつがいでも同様の状況を確認していますから、このペアだけが例外というわけではなさそうです。あちらの繁殖期間は1月から9月ですから時間的には可能なのでしょう。とはいえ、単純に2年でやることを1年でやっているわけで、しかもそれを何年も続けるのですからまあ大したものです。
ところで、この研究では同じつがいが毎年同じ巣を使う傾向があることも示されています。これも皆さん疑問をもたれていた点ではないでしょうか。去年と同じ巣が使われていたら去年と同じペアの可能性がかなり高いということですね。
今回は私がとくに興味を持った部分だけ抜き出してご紹介しましたが、白井さんの論文にはこの他にも貴重な知見が数多く報告されています。それらは学術的に価値があることももちろんですが、それだけではないように私は思います。私にとってこの研究の最大の魅力はアオサギ一羽一羽が個体識別されているという点です。個々のアオサギが区別されているということは個々のアオサギのドラマが見えてくるということです。その結果、アオサギを種としてではなく個として捉えられるようになれば、アオサギと人との関係も自ずからもっと親密なものに変わっていくはずです。白井さんの研究はそういった点でも大きな意味をもつものと私には思えます。ともかく、興味をもたれた方はぜひ原文に当たってみてください。