アオサギを議論するページ

太平洋オオアオサギとは?

アオサギの近縁種にオオアオサギという鳥がいます。名前のとおりアオサギよりひとまわり大きいのですが、見かけや生態はアオサギに大変よく似ています。ただ、住んでいる場所が違うので互いに顔を合わすことはまずありません。アオサギは旧大陸、オオアオサギは新大陸と住み分けているのです。おそらく、もとは同じ種だったのが地理的に離れて暮らすうちに少しずつ違いが生じていったのでしょう。

ところで、この2種のサギ、どちらの数が多いでしょうか? 住んでいる面積から考えるとアオサギのほうが少し多そうな気はしますが。じつは少しどころか圧倒的にアオサギのほうが多いのです。アオサギの総数は10年ほど前の見積もりではおよそ265万羽。これに対してオオアオサギのほうはわずか13万羽ていどで、アオサギの20分の1にもなりません。もっともこれらの推定値は相当に大雑把なもので、とくにアオサギの数値はてんで当てになりません。正確な値が出せているのはヨーロッパぐらい。他はサハラ以南のアフリカで100万、東アジアで100万といった具合にとんでもないどんぶり勘定なのです。北海道のアオサギが約1万、日本全体でもたぶん4、5万ていどですから、そこから類推しても東アジアに100万もいるとは到底思えません。中国は面積は広いですけどアオサギがそれほど多くいる感じはしませんし。いずれにしても、アジア、アフリカは体系的な調査がほとんどなされていないので何も分からないのです。残念なことです。

ともかく、オオアオサギはアオサギより少ない、これだけは間違いありません。その少ないオオアオサギを亜種のレベルに分けるとさらに少なくなります。タイトルに書いた太平洋オオアオサギ(Pacific Great Blue Heron)はじつはそうした亜種のひとつなのです。彼らはアメリカの北西部からアラスカにかけての太平洋沿岸に住んでいて、総数でも6,500羽ほどにしかなりません。ただ、そのほとんどはシアトルやバンクーバーのある湾の一帯で暮らしているため、総数は少ないとはいえ、その付近だけに限定して考えると生息密度はけっこう高いわけです。

7744これはちょっとイメージしにくいと思いますので、あちらと北海道の地図を同縮尺で並べてみました。オオアオサギがいるのはシアトルやバンクーバーが位置する湾の沿岸一帯です。ここに約6,500羽いるといいます。かたや北海道は約1万。こうしてみると密度としては似たり寄ったりと言えるのではないでしょうか。つまり、太平洋オオアオサギは総数は少ないけれども、分布が集中しているために、いるところではわりと普通に目にする、そんな鳥なのだと思います。そういうことが関係しているのかどうか、IUCNのレッドリストでも太平洋オオアオサギは軽度懸念に分類されています。

ところで、なぜこんなことを書いているのかというと、ネットを見ていると太平洋オオアオサギの記事がけっこう頻繁に目に入ってくるからなのですね。オオアオサギの記事自体、アオサギの記事に比べて多いのですが、太平洋オオアオサギの記事となるととくに多いように思います。しかもいずれも興味深いニュースなのです。それもそのはずで、シアトル・バンクーバー地域は昔からオオアオサギ研究のメッカなのです。オオアオサギに対するあちらの人々の意識が高いのはそういうことも影響しているのかもしれません。その辺の事情については近いうちにもっと掘り下げて書いてみたいと思います。お楽しみに。

『幻像のアオサギが飛ぶよ』書評

reviw当サイトの掲示板にもときどき投稿して下さっている佐原さんが、先日、『幻像のアオサギが飛ぶよ』という本を出されました。佐原さんはアオサギやゴイサギなど鳥や魚の生態を長年研究されてきた方ですが、今回の本はタイトルから推察されるように純粋な生物学からはかなりかけ離れた内容になっています。ひと言で言うと、アオサギと人の関わりを文化史の面から考察していったものです。この手の話には私も一方ならぬ関心があり、ことあるごとに当サイトでもあれこれ書き散らかしてきました。じつはそうした私の興味自体、佐原さんから相当な影響を受けてきたのです。

そんなことで、先日、新聞に同書の書評を書きました。掲載誌は佐原さんの地元である津軽地方の陸奥新報で、掲載日は4月1日です。書評を読んで興味をもたれた方は本のほうもぜひ読んでみて下さい。

人とアオサギの文化史

古来、人は動物にさまざまなイメージを付与してきた。アオサギにあってもそれは例外でない。例外でないどころか、イメージの豊かさという点では他のもっと身近な動物に勝るとも劣らないだろう。

本書は、そうしたアオサギのイメージ、「アオサギ観」に焦点を当て、人とアオサギの関わり合いの歴史を紐解いたものである。まずタイトルが印象的だ。これは近代詩の一節からとられたものだが、日本人のアオサギイメージの一典型として示されている。このように、著者は近代詩をはじめとした古今東西の文献資料を幅広く渉猟し、それら一連のテキストから日本人独特のアオサギ観を洗い出す。

そして、そこで浮き彫りになるのは「憂鬱で不気味な」アオサギである。一方、西洋のアオサギは「高貴で精悍だが孤独」だという。どこでこのような違いが生じたのか? なぜ日本のアオサギ観はこうもネガティブなのか? その理由として提示される事実はなかなか衝撃的だ。日本のアオサギはかつて妖怪視されていたというのである。ところが、時代をさらに遡ると田を守る穀霊であったともいう。穀霊から妖怪への大転換。なぜそんなことが起こったのか? そこにはまたシラサギを交えての新たな謎解きが控えているのだ。人とサギ類の関わりはかくも奥深い。

本書の特徴は、こうした謎解きが文献からの推測にとどまらず、生物学的事実に裏付けられていることにある。アオサギの登場するさまざまな文化史的テキストを縦糸に、生物学的知見を横糸に、日本人のアオサギ観を丁寧に織り上げる、これは相当にしんどい作業である。にもかかわらず、堅苦しさを感じることなく著者と一緒に謎解きが楽しめるのは、「(アオサギの)研究と並行して、アオサギゆかりの品々を集め始めた」という著者の軽やかで旺盛な好奇心が語りのそこかしこに感じられるからだろう。

なお、本書が単なる碩学の書ではないことは強調しておかなければならない。人とアオサギの関わりの歴史を通して生きものに親しみを感じ、ひいては生きものの保全に関心をもってほしい、それが本書に通底する著者からのメッセージである。本書を読んでアオサギと共有してきた歴史を心の内に感じられれば、アオサギはもはや得体の知れないよそ者ではない。もちろん妖怪でもない。いまや我々は共感できる隣人になり得るのである。

サギ類一斉調査ご協力のお願い

《注意》この記事はエイプリールフール用に書いたものでまったくの出鱈目です。お間違いなきよう。

すっかり春めいてきましたね。ここ北海道では南からのアオサギの群れが続々と到着し、日ごとにコロニーが賑やかになっているところです。

さて、すでにいろいろなところで話題になっているとおり、今年は全世界でサギ類の一斉調査が行われています。サギというと大きくて目に付きやすいため調査も十分になされていると思われがちですが、これが意外にほとんど調査されていないのですね。比較的丁寧に調査されているのはヨーロッパ、あとは北米ぐらいなもので、そのほかの地域は日本も含めもう全然ダメなのです。そんな状態ですから、今回のプロジェクトに寄せる期待は嫌が上にも高まります。

今回の調査はGoogleが進めているGoogle Maps of Wildlifeプロジェクトの一環で行われるもので、小型機を利用し上空からサギ類のコロニーを探索するのが目的です。ただ、困ったことに現段階で調査者がまだ全然足りてないのですね。日本での調査時期は5月、6月ということで、もうひと月しかありません。ところが、北海道地域だけでも調査スタッフが少なくともあと10人は必要という状況なのです。そこで今回のプロジェクトに携わっている者のひとりとして今回あらためてご協力をお願いしているような次第です。

本年度はコロニーの位置とおおよその規模の把握が目的で、種ごとの営巣数など詳細な情報収集は求められていません。そのため、調査者には特別な能力は必要なく、車が運転できるていどの普通の視力があって飛行機が苦手でなければどなたでも参加可能です。

なお、今回のプロジェクトはGoogleに加えてNational Geographicも協賛という形で参加しています。なので、ご想像のとおり調査資金はけっこう潤沢で、調査に参加される方には相当な謝礼が用意されているようです。まあ謝礼はおまけのようなものですが、航空機センサスなど個人ではなかなか企画できるものでありませんし、またとない貴重な体験になるのは間違いないと思います。そんなわけで、とりあえず以下に募集の詳細を貼っておきます。ご協力いただける方には私からもアオサギカレンダーを差し上げますので、お時間に都合のつく方は是非ご検討ください。どうかよろしくお願いいたします。

『Google Map of Wildlifeプロジェクト』調査者募集のお知らせ

その鷺、青き衣を纏いて…

アオサギは青くもないのになぜ青鷺なのかという疑問。おそらくこれは数あるアオサギの疑問の中でも筆頭に位置するのではないでしょうか。たしかに、色で名付けるなら灰鷺のほうが妥当なように思えます。実際、世界のほとんどの国では「灰色の鷺」と呼ばれているわけですから。ところが、この疑問の答えを見つけようとネット上を調べてみても、分かったような分からないような説明しか出てきません。曰く、古語では灰色のことを青と言っていた云々。もちろんそれも間違いではないのですが、これで納得できる人はかなり物分かりの良い人でしょう。

そこで、今回はこのことをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。まずアオサギの青はどの漢字で書くのが正しいのかという問題。「青鷺」と「蒼鷺」、これはどちらも正解です。それに、いずれか片方が最近になって加わったとかではなく、両方とも大昔から日本で使われてきた漢字です。「青鷺」のほうは奈良時代初期に編纂された『常陸国風土記』に出てきますし、「蒼鷺」のほうはこれも奈良時代あるいはそれ以前に書かれた『漢語抄』に出てきます。「蒼鷺」のほうがなんとなく古そうですが、実際そのとおりで、「蒼鷺」の漢字は中国から伝わったものなのです。だから、今でも中国では「蒼鷺」の字が使われています。一方、あちらには「青鷺」という語はありません。アオサギといえば「蒼鷺」であって「青鷺」ではないのです。というのも、中国の青は日本の青と色合いがずいぶん異なるからなのですね。あちらの青は日本の青に比べるとずっと緑がかった明るい青色を指すようです。これではもうまったくアオサギの色合いとは言えません。かといって、日本の青がアオサギの色合いに合致するかといえばこちらもさっぱりですが…。そんなことで色の問題はともかく、「蒼鷺」の語が中国起源で、これが日本に伝わった後、蒼の代わりに青が当てられたというところまでは間違いなさそうです。

さて、青くもないサギになぜ青という色を冠したのかという冒頭の疑問。これはネットの知識的には、時を経るうちに青の意味が変わってしまったということで簡単に片付けられるわけですが、もう少し具体的に言うと、昔は現在の青色だけでなく、緑や灰色など寒色系の白黒はっきりしない色が総じて青とみなされていたということです。もっとも、昔の人の色の識別能力が現在の人より劣っていたということではありません。視覚的に見えているものは現代人も昔の人たちも同じです。要は、昔の人々には青や緑や灰色など個別の色をこと細かく区別する必要性がなかったということなのですね。結局、必要性こそが言葉をつくっているのです。

現代の日本では青と灰色を違う言葉で表せないと何かと不便ですが、では、朱色と橙色の違い、あるいはバーミリオンとスカーレットの違いはどうだと問われれば戸惑ってしまう人がほとんどではないでしょうか。それらの色が微妙に異なることは視覚的には分かっても、その色区分に実際的な意義を見い出せる人などほとんどいないと思います。それらの色を区別できなくても何不自由なく暮らしていけますから。同様に、もっと単純な色区分だけで用の足りる社会であれば、青と緑、青と灰色をわざわざ分ける必要などどこにもないのです。実際、ごく最近まで(あるいは今も?)青や灰色のない言語、社会はけっこうあったそうですよ。

そんなことで、色の種類は社会的必要性に迫られて少しずつ増えていくというのが普通のようです。なので、最初はどの社会どの言語でもわずかな色区分しかありません。そして面白いことに、色の表現の初期の段階では、あらゆる言語で例外のない規則があるということです。つまり、まず黒と白が区別され、その次に赤が来るという規則性ですね。この段階では青はまだ現れず、青の色合いは黒とみなされることが多いといいます。で、この黒白赤3つの色の次に、緑、黄、青という辺りが区分され、さらに後になって灰色などの曖昧な色が追加されていくようです。この辺のことは『言語が違えば世界も違って見えるわけ』という本に詳しく書かれているので興味のある方はぜひ読んでみてください。とても面白い本です。

この色の表現についてもう少し説明すると、黒、白、赤、青はどれも「い」で終わる形容詞形をもっています。緑や紫や灰色などはそうはいきません。つまり、黒、白、赤、青の4色はその他もろもろの色とは一線を画した別格の語彙と言えそうです。色の名そのものを表すということの他に、モノの様態や様相を表す言葉でもあったということなんですね(なお、黄色と茶色にも「い」が付けられますが、これらは黒、白、赤、青とは別の成り立ちをもつようです)。

それでは青が色以外に意味するものとはいったい何なのでしょう? これはおそらく無数の説があるのでしょうが、ここではありふれたものではない説を敢えて挙げてみたいと思います。まず、宗教(仏教)上の解釈として、青は死や怒りといった負のエネルギーを表しているという説があります。たとえば、青色の肌をしたインドのシバ神などがこれに当たります。また、青は魂や霊威の横溢した状態を示すとの解釈もあります。これはさらに青が呪力をもつという解釈にも繋がります。これらのイメージはベクトルの向きは多少違えど、いずれも強烈な精神性をもつという点ではかなり似通ったものと言えそうです。

一方、そうした青のイメージの受け入れ母体となるアオサギはというと、これこそ人によってそのイメージはさまざまなはず。けれども、アオサギの恐竜っぽさとか近寄りがたさとか、立ち姿の凜とした感じ、水面下に獲物を狙うときのはち切れそうな緊張感、そうした印象はそれほど個人差なく誰もが共通に感じとれるものではないでしょうか。そして、これらアオサギに本質的に備わっているイメージは、上に挙げた青の意味するものとかなりよく共鳴するような気がするのです。

アオサギがイメージを生成する主体だとすれば、青という語は基本的にアオサギに関係なく生成されたイメージの集合体といえます。このふたつがアオサギの色合いを拠り所に合体するとき、そこには名付け親が予想だにしなかった生成変化が起こるはずです。アオサギは青の語をさらに進化させ、青はアオサギをさらに魅力的な存在に変える…、これは青や赤白黒にしかできないマジックです。とても灰色や茶色の真似できる芸ではありません。アオサギが青鷺であり灰鷺でなかったことの意味はとてつもなく大きいのです。

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