先日、twitterに、古代エジプトの『死者の書』にあるアオサギへの変身の呪文について書いたところ、思いがけず大変大きな反響がありました。あのような話題は皆さん興味があるのですね。
そういうことがあったからではないのですが、今回はアオサギの博物誌的な話をご紹介したいと思います。以下に載せた文がそれです。「イメージとしてのアオサギ」というタイトルで、2011年に北海道野鳥愛護会の会報に寄稿したものが元になっています。今回それを全面的に改訂してみました。ここでは神話、宗教、文学等、アオサギに関わりのあるさまざまな分野について書いています。ただ、これらの分野については私はまったくの門外漢でして、興味本位で調べているというのが正直なところです。内容については自分なりに正確を期したつもりですが、そのようなわけですので間違いや思い過ごしがないとも限りません。おかしなところなどありましたらご一報いただければと思います。少々長目の文章です。お時間のあるときにでもゆっくり御覧いただければ幸いです。
イメージとしてのアオサギ
野付にて
北海道の東のはずれ、標津の町は根室海峡に面する漁師町である。町のすぐ北に標津川が流れ、さらにその先に湿地と森が広がる。この森の一角に道内でもかなり大きなアオサギのコロニー(集団繁殖地)がある。渡り鳥の彼らは、毎年、氷が解けはじめる頃、コロニーに飛来し、夏にかけて子育てに明け暮れる。そして秋が深まる頃、多くの幼鳥たちを引き連れふたたび南へと去って行くのである。
彼らがこの場所を選んだのは、近くに絶好の餌場があることが大きい。餌場は町から南へ10kmほど下った野付湾である。湾はホッカイシマエビの好漁場となる浅海域で、潮が退くたび、広大な浅瀬が現れる。すると、コロニーから飛来した何百というサギたちが、この時とばかりに一斉に漁をはじめるのだ。作者の名を失念したが、「青鷺の天下となれり野付湾」という句がある。まさにそのとおりの光景が広がるのだった。
さて、北海道らしいのびやかな風景の広がる野付湾は、春から夏にかけて多くの人々で賑わう人気の観光地でもある。時はまさにアオサギの子育てシーズン。観光客が漁に勤しむアオサギを目にすることは多い。ところが、彼らは湾を眺め、「ああ、なんにもいないねえ」と言って立ち去るのである。彼らの目的はタンチョウか、そうでなければオジロワシと相場が決まっていた。目の前に何十羽、何百羽とアオサギがいるにのに、ほとんどの観光客の目にはまるで入ってこないのだ。
そんなことがたびたびあった。その都度、なぜこうもアオサギは不人気なのだろうとしばし考えさせられた。アオサギはどこにでもいるからと言う人もいる。けれども私にはそれだけが理由ではないように思えた。なぜなら、同じようにどこにでもいても、海外のアオサギは非常に人気があるからだ。
たとえば、イギリスではかれこれ90年近くアオサギだけを対象にした全国規模のモニタリングが行われている。当地でのアオサギの人気ぶりは日本からは想像できないほどで、アオサギの関連グッズも多い。また、北米に目を移すと、アオサギの近縁種であるオオアオサギがこれまた高い人気を誇っている。同種を対象にしたアメリカでの保護活動は日本から見ると奇異に思えるほど精力的だ。彼らのオオアオサギに対する思いはよほど強いらしく、同国最大の鳥類保護団体であるオーデュボン協会など、ロゴマークからしてオオアオサギである。かといって当地のアオサギやオオアオサギが希少な鳥かというとまったくそうではない。状況は日本のアオサギと似たり寄ったり。差し迫った保護の必要性があるわけではない。
そんなことをあれこれ考えていると、日本でのアオサギの人気のなさがますます不思議に思えてくるのである。この違いはいったいどこから来るのか。ここではその理由を古今東西のアオサギのイメージ、とくに文化面に現れるイメージを頼りに探ってみたいと思う。
アオサギが神だった頃
今から四千年前の古代エジプト。ラーが太陽神として君臨し、オシリスが冥界を司っていた地で、ベヌウという名の一羽の聖鳥が崇められていた。他の何千という神々と同じく、ベヌウも最初は特定地域でのみ崇拝される知名度の低い一地方神にすぎなかった。それが千年、二千年の時を経て多くの神々が忘れ去られる中、ベヌウはしなやかに生き続け、やがて神々の中でも極めて重要な地位を占めるに至った。この聖鳥のモチーフこそアオサギなのだ。
それでは、ベヌウが神話の中で担っていた役割とはどのようなものだったのか? ベヌウの名は「昇る」という語が転化したものとされている。ナイルの川面からアオサギが悠然と飛び立つ情景を思い浮かべれば、「昇る」がアオサギと親和性の高い語であることは容易に想像がつく。とはいえ、「昇る」と聞いて誰もが最初にイメージするのはやはり太陽だろう。古代エジプト人とてそれは同じである。ただ彼らは、もともと関連のない事物を、互いに共通する属性のもとに簡単に結びつける性癖があった。つまり、彼らの思考では、「昇る」という概念を介することでアオサギと太陽はごく自然に結びつくのである。そして、この関係はそのままベヌウと太陽神ラーの関係にも反映されることになる。ベヌウがラーの化身、ときにラーそのもののようにみなされたのはごく自然な成り行きだったのだ。
さて、このようにラーと密接な関係にあるベヌウは、頭上に真っ赤な円を戴いた姿で描かれる。その円が太陽を象徴していることは明らかだ。が、それはベヌウのもつひとつの側面でしかない。というのも、ベヌウの頭には重そうな冠が載せられることもあるからだ。これはアテフ冠と呼ばれるもので、本来、冥界を司る神、オシリスが戴くものとされている。それをベヌウがかぶっているのは、ベヌウがオシリスと同一視されていることに他ならない。実際、ベヌウはラーのみならずオシリスとも深く結びついていたのである。
それにしても、なぜ「昇る」イメージのアオサギが冥界と関係をもつようになったのか? これについては古代エジプト人の死生観を考慮する必要がある。彼らは、人は死んだ後もその魂は生き続け、時を経て現世にふたたび復活すると考えていた。死によってすべてが終わるのではなく、不滅の魂のもとに、死と再生はワンセットで循環するものとみなしていたのである。
ベヌウが象徴する太陽は、一日の終りに西に沈み、翌日、東の空にふたたび昇る。これは死と再生のメタファーである。一方、アオサギは乾季にナイルの水が引くといなくなり、洪水期になると再び戻ってくる。これも死と再生の暗喩に他ならない。アオサギの季節移動、太陽の運行、死後の復活、これらはすべて死と再生のイメージでくくられる同じ出来事なのだ。ベヌウがオシリスに関連付けられたのはあまりにも当然のことだったのである。
ベヌウとオシリスの深い結びつきは『死者の書』にベヌウがたびたび登場することでも察せられる。『死者の書』は、死者とともに棺に収められた巻物で、そこには神々への賛歌やさまざまな呪文が記されている。死者が人以外のものに変身するための呪文も多い。その中に死者がベヌウに変身するための呪文がある。
「我は原初の丘より飛びいでしものなり。我はケペラのごとく来たれり。我は植物の如く芽吹きたり。我は亀の如く甲羅に隠れたり。我は全ての神々の種なり。(中略)我は玉座に上りたり。我はクーを授けられたり。我は全能なり。我は神々の中で神格を授けられたり。我はケンス、全ての力の王なり。」(『The Book of the Dead』E. A. Wallis Budge著より拙訳)
ひとつひとつの文句は謎めいているが、丁寧に読めばラーやオシリスのもつ属性が随所に散りばめられていることに気付く。ラーやオシリスの属性とはすなわちベヌウの属性に他ならない。つまり、これは死者がベヌウに変身したこと、言い換えれば死者がベヌウとして再生したことの高らかな宣言なのだ。
このように、古代エジプトのアオサギは、昇り、再生するという、極めてポジティブかつ生命力に溢れたイメージをもっていた。そして、このイメージはベヌウとともにはるか時代を下り、やがてギリシャ、ローマへと受け継がれることになる。ただし、それらの地域にベヌウの名は伝わっていない。そこでは我々にも馴染み深いフェニックスの名で知られるようになるのである。
火の鳥の時代
フェニックスをギリシャ世界に最初に紹介したヘロドトスは、その著書『歴史』の中で「私はその姿を絵でしか見たことがないが」と、その実在性を疑いつつ、鳥の姿や生態を具体的に書き留めている。それによると、フェニックスの形状はもはやアオサギからはほど遠く、むしろタカに近い。これはおそらく『死者の書』の一貫性のない記述内容に原因があると思われる。同書は初期の頃は長大かつ重厚な文書だったが、年月を経るにつれ次第に俗化、形骸化する。内容もろくに理解していない作り手が、既存のものから好みの断片を適当につなぎあわせ、簡易で出鱈目なものが量産されていったのだ。間違いなどいくらでも起こり得ただろう。
同書に「ベヌウの頭をもつ美しき金色のタカ」という一節がある。ベヌウ、あるいはフェニックスのモデルがアオサギからタカへと変わったのも、この辺の文章が都合の良いように解釈された結果かもしれない。
ただ、そうした間違いやいい加減さは、思いがけず文化を活性化させることがある。もし、ギリシャに伝わったフェニックスがその後もアオサギの姿で飛び回っていたとしたら、現在の我々が知るフェニックス伝説は果たして存在しえたかどうか。
かつてのベヌウはフェニックスへ名を変えただけでなく、その姿形も一新され、アオサギとは似ても似つかぬものになってしまった。しかし、ベヌウのもっていた独自の性質は、多少の変更が加えられながらもフェニックスにしっかり受け継がれた。すなわち、太陽のイメージは炎のイメージへと転化され、再生のイメージは、自らを炎で焼いた後、灰の中から復活するという逸話となって伝承されたのである。
ところで、現代ではもっぱらフェニックスに関連付けられるこれらのイメージだが、アオサギのもつ属性としてただ一度だけ蘇ったことがある。時はトロイア戦争直後、まだ人が神々と共に暮らしていた時代、神の命を受けて現在のイタリアの地に進軍したトロイア人アイネイアスは、現地の王トゥルヌスと戦い、ついにアルデアの町を陥落させる。ローマの詩人オウィディウスは、この時の情景を次のように描写しいている。
「トゥルヌスが生きているあいだは強大をうたわれたアルデアの都も、落ちた。異国人の剣がこの都を滅ぼし、家々が熱い灰に埋もれたとき、うず高い廃虚のなかから、見知らぬ鳥が舞いあがり、羽ばたく翼で灰を打った。」(『オウィディウス 変身物語(下)』中村善也訳)
この詩的で神秘的な物語に登場する鳥は、自らを焼き、灰の中から再生するフェニックスのイメージそのものといえる。しかし、この鳥をオウィディウスはフェニックスとは呼ばない。鳥は「見知らぬ鳥」であり、名はない。その代わり彼は、廃墟となった町そのものに、これがアオサギの物語であることを語らせている。つまり、町の名のアルデアとはラテン語でアオサギのことなのだ。アオサギは滅び、新たなアオサギとして再生する。まさにフェニックスのごとく再生するのである。
しかし残念ながら、アオサギとフェニックスの邂逅はこれが最初で最後だった。このあと両者は再び相まみえることなく、アオサギは生身の姿をもつ本来のアオサギとして、フェニックスはより神秘的、伝説的な創造物として、それぞれ別の空に羽ばたくことになるのである。
哲学者の生物学
それより少し前、といってもオウィディウスより300年以上も前になるが、アオサギを曇りのない目で詳細に観察した人物がいた。その人、アリストテレスは『動物誌』でアオサギの習性を次のように説明している。
「灰色のサギは巣についたり、交尾したりするのが困難である。すなわち、交尾しながら鳴き立て、「眼から血が出る」といわれ、(後略)」(『アリストテレース 動物誌(下)』島崎三郎訳)
この観察はほぼ正しい。アオサギは他の鳥と同じく雄が雌の背に乗って交尾する。ところが、あの長い脚ゆえにバランスをとるのが難しく、実際、滑り落ちることもある。困難というほどではないにしろ、観察者にぎこちない印象を与えるのは間違いない。
それよりも注意したいのは交尾のとき「眼から血が出る」という記述である。アオサギの虹彩は興奮の度合いが高まると赤くなる。アリストテレスが書いているのはおそらくこのことだろう。この現象は必ずしも交尾時に限られるわけではなく、もちろん血を流しているわけでもない。ただ、ここで注目すべきは虹彩のわずかな色の変化をも見逃さない当時の人々の優れた観察眼である。双眼鏡もなく肉眼で観察するしかない時代、対象そのものによほど興味がなければここまで細かく観察できるものではない。逆に、それができたということは、彼らが何の色眼鏡もかけず対象そのものを見ていたことの何よりの証拠だろう。そう考えると、当時の人々がアオサギに対して抱いたイメージは、もしかすると今日、我々が抱くアオサギのイメージとそれほど違わなかったかもしれないとも思うのだ。
しかし、このような時代は長く続かなかった。時はやがてギリシャからローマへと移り、その後、キリスト教がヨーロッパ世界を席巻しはじめる。そしてアオサギには再び幾重にも文化的なフィルターがかけられ、作為的なイメージだけが独り歩きするようになるのである。
Godがもたらしたもの
まずは、聖書に記されたアオサギから見てみよう。旧約聖書の『レビ記』に次のような記述がある(『申命記』にも同様の記述あり)。
「鳥のうち、次のものは、あなたがたに忌むべきものとして、食べてはならない。それらは忌むべきものである。すなわち、はげわし、ひげはげわし、みさご、(中略)、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり 」(『口語訳旧約聖書』)
このように、アオサギはユダヤ人にとってひどく厭わしい鳥だったようだ。もっとも、これはあくまで食を禁じるための戒律であり、鳥の本性が非難されているわけではない。実際、聖書の別の箇所では、コウノトリやヤツガシラなど、ここに挙げられたのと同じ鳥が、見習うべき行動規範をもつものとして称賛されているのだ。アオサギはといえば、残念ながら聖書での言及は上記箇所以外には見あたらない。しかし、聖書の外に目を向けると、『フィシオログス』や『ベスティアリ』といった当時の寓話集でアオサギはじつに好意的に紹介されているのである。これらの本は従来の博物学の知見をキリスト教の教義に合うよう都合よく説明したもので、聖書を別にすれば中世を通して庶民にもっとも広く読まれていたという。内容は他愛のないものだが、キリスト教の価値観の普及には絶大な貢献があったはずだ。ともあれ、これらの本でアオサギがどのように紹介されていたのか、『フィシオログス』の一節を引用してみよう。
「この鳥は、数ある鳥の中でもとりわけ利口だ。巣はひとつ、ねぐらはひとつ、いくつもの休み場を求めない。いったん住みつくと、そこに止まり、そこで眠る。けっして死んだものを食べない。あちこち飛んでまわることもない。かれのねぐらも、かれのえさ場も、きまって同じだ。」(『フィシオログス』梶田昭訳)
冒頭の「とりわけ利口だ」という主観的評価は別にしても、本当にサギのことを言っているのか疑いたくなる箇所は多い。巣がひとつしかないことや死んだものを食べないことなど当たっている部分もあるが、ねぐらはひとつだとかあちこち飛び回らないなどと書かれると首を傾げてしまう。実際、同書の別の版では同じ話がアオサギでなくオオバンになったりするのだから当てにならないのだ。
この例に限らず、こうした動物名の置き換えは当時は珍しくなかった。そもそも『フィシオログス』が参考にする旧約聖書自体、翻訳の後先でしばしば動物名が入れ替わるのである。旧約聖書の大部分はもともとヘブライ語で書かれたものだが、後にギリシャ語やラテン語に訳され、それらがさらに英語、各国語へと翻訳されている。あらゆる内容に誤訳が付きものの翻訳の世界で、動物の名が正しく訳される保証はどこにもなかったのだ。そもそも神学が専門の翻訳者に、鳥や動物についての十分な知識を要求するほうが無理というもの。初期のキリスト教には中世のような学問的厳密さは求められていなかっただろうし、聞いたこともない動物名が出てくれば、自分の知っている適当な動物で間に合わせたとしても不思議ではない。
もっとも、そうした間違いも文化の活性化にはあるていど必要なのだとは思う。間違いが必ずしも悪い結果をもたらすとは限らないし、嘘から出た真のように間違いが新たな考え方や物の見方を創造することも多い。DNAの塩基配列の誤りが進化の原動力となるようなもので、ある種の間違いは文化の内的多様性を増し、文化を頑健なものにするために必要不可欠なものかもしれないのだ
ところで、『フィシオログス』で示された、アオサギはとりわけ利口だとの見方はその後も廃れることはなかった。たとえば、9世紀半ば、ベネディクト修道僧であったラバヌス・マウルスは、自著『事物の本性について』の中で「アオサギは最も賢い鳥だ」と記している。同書は『フィシオログス』を参考に書かれているので、こうした記述があること自体は不思議ではないのだが、同じ内容でも一般向きの寓話ではなく学術的な著作に取り上げられたことに意味がある。ここにおいて、キリスト教の中でのアオサギの立場はいっそう揺るぎないものになったといえるだろう。
マウルスは同書でもう一箇所、アオサギについてじつに興味深い説を唱えている。ここで彼が引用するのは旧約聖書の詩篇、「こうのとりはもみの木をそのすまいとする。」(『口語訳旧約聖書』詩篇104章17節)との一節。ここで言及されているのはコウノトリであり、ヘブライ語の原典に遡ってもやはりコウノトリである。一方、マウルスが参照したラテン語版ではコウノトリはアオサギに入れ替わっている。これは前述のとおりよくあること。しかし、どのような思考過程を経たのか、マウルスはこの何でもない一節から思いもよらぬ結論を導く。彼はこの節を「アオサギはキリストである」と解釈するのである。
西欧の意識に潜むアオサギ
アオサギのイメージが聖書や神学者によって規定される、そんな時代が千年以上も続いた。が、それもやがて終わり、アオサギを覆っていたキリスト教のヴェールは徐々に剥がされていく。しかし、いったん定着したイメージはたとえそれが作為的なものであろうと歴史の記憶から完全に消え去ることはない。新たなイメージの下で息を潜めるか、あるいは混じり合うか、その様態はさまざまであれ記憶の片鱗はなおも残りつづける。キリスト教のアオサギのイメージもまたそのようにして残り、西欧文化の底流に今も細々と見え隠れしているのである。
さて、西洋のアオサギの系譜を語るのであれば、キリスト教のほかにケルトを忘れるわけにはいかない。むしろケルト文化に根ざすアオサギのイメージのほうが、土着性が高いぶん、キリスト教が残したもの以上に後世への影響は大きいかもしれないのだ。
ケルトの人々が活躍した舞台は、キリスト教がヨーロッパ世界を席巻する以前のガリアやブリテン諸島、および現在のアイルランドである。自然崇拝の民族である彼らは、日頃から動物や鳥との精神的なつながりを強く意識していたようだ。このことは彼らの神話で人がしばしば動物や鳥に姿を変えられることでも察せられる。もちろんアオサギへの変身も多い。
面白いのは、そうしたアオサギへの思いが、神話の中だけでなく実生活の中にも現れていることだ。たとえば、彼らの社会を仕切っていたドルイドと呼ばれる神官たちは、自らにアオサギのイメージを重ねていたという。もっとも、それは取り立てて奇異なこととはいえない。水際で首をすくめて黙然と佇むアオサギの姿を見て、そこに人格の投影された何ものかを感じるのはケルトの人々に限らないからだ。しかし彼らはそれを感じるだけでは物足りず、自らとアオサギを同一視するまでに想像力を高めていった。それが当然視される、少なくともそうすることに価値が認められる社会だったのだ。
さて、時代は下って18世紀末から19世紀前半のアイルランド。詩人であり劇作家でもあるW・B・イェイツは、古代ケルトを描いた作品にしばしばアオサギを登場させている。彼の描くアオサギは、変身やドルイドに深く関連付けられる場合もあれば、古代ケルトの代弁者であるかのように思われることもある。イェイツにとってのアオサギは、ケルト世界を視覚的、概念的に表現する上で格好の素材だったのだ。
さらに、イェイツよりやや遅れて登場したウェールズの詩人、ディラン・トマスは、作品にケルト的な要素を取り入れる中で、自然の聖性のシンボルとしてアオサギをしばしばキリスト教の司祭に例えている。ドルイドと一体となったアオサギのイメージが、同じ聖職者ということでキリスト教の司祭に転用されたのである。トマスにとってのアオサギは、キリスト教とケルト文化が融合、結晶化したものといえるだろう。
イェイツやトマスの作品は、西洋のアオサギの文化史を見ていく上で記念碑的な作品群であり、今日なおその輝きは薄れていない。この両人のことを思うとき、彼らのアオサギは単に文学上の表現手段にとどまらず、もしかすると意識のもっと奥深くまで入り込んでいたのかもしれないと思うことがある。そうでなければトマスの奇抜な行動などとても説明できないのだ。なにしろ彼は息子をアイルランド語でアオサギと名付けているのである。
ダークサイドに生きる
それでは日本のアオサギはどうであったか。まずは言わずと知れた『万葉集』。ここには4500首を超える歌が収録されているが、サギが詠まれているのはわずかに1首のみである。それもシラサギを詠んだもので、アオサギに至ってはただの1首もない。ツルを詠んだ歌が45首もあることを思うとやはりこれは奇妙である。万葉の歌人たちの感性も、所詮、野付の観光客と変わらないということだろうか。
それでは『古事記』はどうだろう。こちらは葬儀と卜占の場面にサギが登場する。ここに現れるのは単にサギであってシラサギともアオサギとも分からないのだが、いずれにしてもその存在は稀薄でメッセージ性はあまり感じられない。ただ、少なくともスピリチュアルな世界の存在として描かれているとはいえるかもしれない。
サギに対するこのいくぶん霊的なイメージはその後もあるていど継承されたふしがある。たとえば『日本霊異記』。同書は平安時代初期に書かれた仏教説話集だが、ここでのアオサギは観音様の化身のような役割で登場する。このあたり、当時の人々の感性はベヌウを創造した古代エジプト人に近かったのかもしれない。
ところが、平安時代も中期に至り『枕草子』が世に出たことで状況は一変する。サギに対する個人の見方をここまで明確に示したのはおそらく同書が初めてだろう。清少納言は「鷺は、いとみめも見ぐるし。まなこゐなども、うたてよろずになつかしからねど(後略)」と書く。現代語に直すと、「鷺は見た目がとても醜い。目つきなども気味が悪いし、何かにつけてかわいくない」というようなことで取り付く島もない。同書は当時から人気があっただけに、サギに対するこの否定的な見方が世間に与えた影響は小さくなかっただろう。
そんなこんなで、日本ではサギに対してあまり良いイメージが定着しなかったようだ。江戸時代になると、こうしたネガティブな見方はますます顕著になる。そして、ついにアオサギは妖怪にまで貶められるのである。江戸中期に活躍した絵師、鳥山石燕は、画集『今昔画図続百鬼』に「青鷺火」という妖怪を載せている。松の木の向こうにおどろおどろしい光を放つアオサギが見え、添えられた説明には「青鷺の年を経しハ夜飛ときハかならず其羽ひかるもの也目の光に映じ嘴とがりてすさまじきと也」とある。当時のアオサギは、ろくろ首や雪女などと並び称される紛れもない妖怪だったのだ。
そして悲しいことに、このアオサギのイメージは明治後も継承される。泉鏡花や夏目漱石など、妖怪の雰囲気を色濃く残すアオサギを作品に登場させた文人は多い。近いところでは京極夏彦の『姑獲鳥の夏』も挙げられよう。要するに、日本のアオサギは多分に負のイメージを背負わされたまま現代に生きつづけているのである。
そして、田んぼに舞い降りる
もちろん、日本人のアオサギ観はこのようにネガティブなものばかりではない。紫式部は『源氏物語』でアオサギの佇まいに奥ゆかしさを認めているし、蕪村や子規のようにアオサギの姿や声を肯定的に捉えた俳人、歌人も多い。蕪村の「夕風や水青鷺の脛を打つ」など、前述の鳥山石燕と同時代の人の句とは思われない清々しさがある。また、現代になるとアオサギに峻厳さや孤高のイメージを読みとった更科源蔵のような詩人も現れる。このように日本人のもつアオサギ観はけっして画一的なものではない。しかし、彼らが表現したアオサギはいずれも個人の感性が多分に反映されたもので、社会が共有するイメージとはかなり隔たりがあるように思われるのだ。
それでは、日本人の共有するアオサギ観はやはりネガティブな方向に偏ってしまうのだろうか? おそらく、そうではない。そのヒントはずっと歴史を遡ったところにある。記紀万葉の時代よりさらに昔、この国の人々にとってサギが特別な存在だった時代がどうもあったらしいのだ。
当時の日本は田んぼを中心とした社会である。人々の願いは稲が豊かに実ることであり、豊作を祈って田んぼに神さまを据えるのはどの地域であれごく自然なことだった。そのように田に祀られた神は一般に「サの神」と呼ばれていた。サの神は毎年、田植えの季節になると山から里に降りてくる。時は五月、五月雨の降る季節である。そこでは早乙女たちが早苗を植えている。サの神が鎮座するのはもちろん桜の木(桜井満著『花の民俗学』参照)。人々は桜の下でサの神に酒や魚を供え豊作を祈るのである。さて、お分かりだろうか? ここに挙げた名詞はすべて「サ」の音で始まっている。田んぼを舞台にサの神を中心としたエコシステムが成立しているのである。もっともここまでは一般によく知られた話。ならば、このサの神の世界にサギがいて何の不思議があろう。
実際、銅鐸に描かれた鳥の絵の解釈から、サギを穀霊の守り神、あるいは穀霊そのものとする説もある(佐原真・金関恕編『銅鐸から描く弥生時代』参照)。穀霊とはもちろんサの神のこと。サの神を守るのに、サの鳥、すなわちサギ以上に相応しい鳥はいないだろう。春、サギはサの神の見守る田んぼに飛来する。サの神の守り神として、あるいはサの神そのものとして飛来するのである。
かつて日本は八百万の神の住まう国だった。そして、おそらくは今でもそうなのだ。この国の昔の姿は仏教や西洋の文化に浸され今ではすっかり見えにくくなっているけれども、よく目を凝らせば、太古からの神々の国は今もまだそこにある、と私は思う。
サの神の 田に来たるらし 鷺の声 よみ人知らず
サギが穀霊とされた昔があった。そのイメージは、日本人の意識の深層に今なお深く刻まれているはずである。