狩猟の歴史
狩猟の歴史
2010/01/19(Tue) 01:01 まつ@管理人 狩猟の歴史
今回は“The Herons”という本から気になる箇所を紹介したいと思います。この本は「ザ・サギ」というタイトルでも分かるように、サギ類についてのこれまでの知見を網羅的に紹介した本です。その中にサギと人との関係を記した章があって、その一部に人間による狩猟の歴史が書かれています。いろいろと問題のあるサギと人の世界ですが、これまでの両者の間にあった歴史をあらためて見直してみれば、また別の角度から問題が見られるようになるかもしれません。
本の内容は何ページもあって長くなりそうなので、何回かに分けて少しずつ紹介していければなと思います。
さて、そもそもサギ類と人類の歴史を比べると、というところから話をはじめます。これは、サギ類のほうが何千万年も前から地球上に存在しているわけで、たかだか二百数十万年前に出現した人類は新参者もいいところなのです。が、そういったことにはおかまいなしに、最初から食う食われるの関係は一方的だったはずです。少なくとも、メキシコでは3000年以上前からサギ類は重要な食料だったとされています。これは別の本で読んだことですが、日本でも縄文時代にはサギを食べていたことが分かっています。
このような狩猟圧は結果として多くのサギ類を絶滅に追いやることになりました。とくに島に住んでいたサギ類は人間が侵入したことでそうとう多くの種が絶滅したようです。もともと捕食者が少なかったため、警戒心がなく捕まえやすかったということもあるのでしょう。サギたちは人間や彼らが連れてきた家畜の食料になるとともに、人間が持ち込んだ病気の犠牲になってしまいました。こうしたことは比較的近年になっても起こっており、たとえば、バミューダ諸島では、人間が島に上陸したのと時を同じくして何種ものサギが絶滅しています。Reunion Night-Heron、Mauritus Night-Heron、Rodrigues Night-Heron、これらの夜行性サギたちは、写真に撮られることさえ無いまま、わずかな骨だけを残して絶滅してしまいました。他の島々でも同じようなことが起こっていたはずです。上に挙げた3種は名前が残っているだけまだいいほうで、かなり多くのサギ類が人類が気づく前に地球上からいなくなったことでしょう。
もちろん、犠牲になったのは島にいたサギ類だけではありません。大昔には南ヨーロッパのほうには巨大なサギがいたそうです。しかし、このサギも南ヨーロッパで人類が栄はじめた約8000年前に絶滅しています。その巨大さは現存する最大のサギであるオニアオサギ(タンチョウよりわずかに大きい)よりさらに大きかったと言います。
島のサギも大陸のサギも、人目につかないサギも目立つサギも、人の影響から逃れられるものは誰もいないということです。現代は何かと言うとサギによる人間側の被害ばかりがクローズアップされ、本来の大きなスケールでの関係が見過ごされがちです。歴史的に見れば、人とサギは「影響するもの」と「影響されるもの」のシンプルな関係なのです。そのことは、絶滅した多くのサギたちが身をもって証明しています。
2010/01/24(Sun) 19:04 まつ@管理人 Re: 狩猟の歴史
このあと何回かにわたって、人がサギを捕まえ殺してきた理由を見ていこうと思います。まずは大昔からもっとも普遍的だったと思われる理由、それはもちろん食べることだったはずです。
サギ類は世界中の様々な文化圏で食べられてきました。現在でもサギを食べる国は数多くあります。たとえば、中国やインド、アフリカもそうですし、ヨーロッパの国々でも食べているところがあるようです。たぶんラテンアメリカや東南アジアも似たような状況でしょう。身近なところでいえば、お隣のサハリンでは市場に行けばアオサギが食用として売られているそうです。世界的に見ればおそらく食べない国のほうがずっと少数派なのだと思います。これは別の本にあったのですが、中国では卵やヒナを食べるために、あえてサギのコロニーを保護したりしています。
アオサギと食の話についてはこれまでも何度か書いたことがあり、『食としてのアオサギ』に保存しています。興味のある方はご覧いただければと思います。
ところで、一概にサギを食べるといっても必ずしも腹の足しにすることばかりが目的ではありません。たとえば、マダガスカルでは伝統的にサギの卵が美容に効果があると信じられており、その目的のためにサギ類が捕獲されてきたそうです。マダガスカルといえばアオサギに比較的近縁なマダガスカルサギが住んでいますが、こうした狩猟の結果、現在のマダガスカルサギの個体数は全体で5000羽にまで減少し、種としての存続がかなり危ぶまれる状況になっています。他に、ヒナの肝臓が薬になるというので殺されているインドのアマサギのような例もあります。美容にしても薬にしても本当にそのような効果があるのかきわめて疑わしいものですが、こういう話は信じないことよりも信じることのほうが簡単なのでしょうね。そして、いったんそうと信じられるとなかなか状況を覆せないのが悲しいところです。
ここで紹介している”The Herons”には書かれていませんが、逆に、サギ類を食べない、食べてはいけないという習慣もあります。そういうことを最も強力に規定できるものはといえば、もちろん宗教をおいて他にありません。たとえば、旧約聖書(レビ記11章と申命記14章)では何故かサギは不浄だと決めつけられており、食べてはいけないものとされています。もし、人類がみな原理主義的なキリスト教徒ばかりだったら、現世界のサギ類の生息状況はずいぶん違っていたかもしれません。でも考えてみれば、食べるなと言うだけで殺すなとは言ってないわけですから、却ってひどい状況になっていた可能性も大いにありますが。
脱線ついででに宗教の話をもう少し。バラモン教やヒンドゥー教が拠り所としている教義に「マヌ法典」があります。この法典によると、サギは「目を伏せ、性格が残酷で、自分の目的の成功しか頭になく、不誠実で、偽りの謙譲を示す」ものなのだそうです。もはや救いようがないほどに貶められています。ここまで言われると、文化的背景云々よりも、この法典をつくった人が過去にサギのことで何かとんでもなく嫌な経験をしたとか、個人的な背景を疑わざるを得なくなってきますね。
ともかく、人間のその時々の都合にサギが翻弄されているという図式は、今も昔も何ら変わらないということなのでしょう。
2010/02/05(Fri) 20:07 まつ@管理人 Re: 狩猟の歴史
「狩猟の歴史」の3回目です。前回の冒頭で、人がサギを狩猟する理由を何回かにわたって見ていきますと書きました。まずは食べるためというのが前回の話。今回取り上げるのは楽しみのための狩猟、いわゆるスポーツハンティングについてです。
スポーツハンティングというと銃による狩猟を真っ先に思い浮かべてしまいますが、それが全てではありません。銃が登場する以前は長い期間にわたって鷹狩りによる狩猟が行われていました。鷹狩りの起源となると、これはもうずいぶん大昔に遡らなくてはならなくて、たぶん人類に権力者が現れるのと同じぐらい古いものと思われます。つまり、権力者のステータスとしての鷹狩りですね。
この鷹狩りは洋の東西を問いません。日本でも古墳時代にはすでに行われていたようで、その後も天皇家、武家の間でひとつの文化として発展してきました。鷹狩りの獲物については私はよく知りませんが、江戸時代には鶴が別格扱いだったようで、将軍家が鷹狩りで捕らえた鶴を「御鷹之鶴」として朝廷に献上するのが習わしになっていたそうです。同様に藩主が鷹狩りで得た獲物を将軍へ貢ぐこともあったでしょう。もちろん、貢ぐだけでなく自分たちも食べていたはずです。前田利家などは鶴を食べすぎて腹をこわしたという逸話が残っているほどです。
当時、鷹狩りができるのは一部の権力者に限られていました。けれども、せっせせっせと狩っているうちに、当然のことながら鶴はほとんどいなくなってしまいます。そこで鶴の代わりに狩猟の対象となったのがサギだったわけです。
このような鷹狩り文化は獲物が存在しないことには成り立ちません。結局、鷹狩りを続けるためには獲物になる鳥が少なくならないように鳥やその生息地を保護する必要があります。海外においてもその事情は同じ。サギの場合は集団で営巣しますから、コロニーを自分の土地に所有していることが鷹狩りにはとても意味のあることだったようです。1700年代の前半と思いますが、ドイツではクライルスハイム男爵とアンスバッハ辺境伯との間でコロニーの所有権を巡ってアオサギ戦争(Heron War)が勃発しています。アオサギにしてみれば、自分たちのために戦争までしてくれて有り難いんだか迷惑なんだかよく分からなかったことでしょう。
人間の都合によるこうした外見上の「保護」がどのくらいサギのためになったかは分かりません。けれども、不特定多数の人間が何の制限もなくサギを狩猟した場合を考えると、少なくとも個体数が減少するスピードを遅らせることにはなったのではないでしょうか。そのことは、日本に将軍も大名もいなくなった明治前半、鳥獣猟が野放し状態になり多くの野生鳥獣が激減したことを思えば容易に想像できます。
ところで、鷹狩りが常に獲物の死を意味していたかというと必ずしもそうではなかったようです。これもドイツでの話。1700年代の初めと言いますから「アオサギ戦争」が起こったのと同時代です。この頃、ケルン選帝侯が、捕まえたアオサギに足環を付けて放鳥したという記録が残っています。しかも、この話で驚くのは1羽のサギを6度にわたって捕まえ放鳥していることです(6羽を捕まえたのではなく1羽を6度です)。この部分は簡単な記載しかないのでこれ以上のことは分からないのですが、この1羽だけを狙って6回も捕まえたということはちょっと考えにくいですから、相当な数のアオサギを捕まえて、たまたまこの1羽は6回も捕まったということだったのだと思います。よほど暢気なアオサギだったのでしょうか。
それはさておき、この話にはつづきがあります。この本(The Herons)には書かれていませんが、1700年代に出版された「ゴールドスミス動物誌」という本に興味深い話が載っています。ケルン選帝侯がドイツで放したアオサギが、長い時を経てオランダでやはり鷹狩りにより捕まえられたというのです。そして、そのアオサギの銀の足環に刻まれた文字は、なんと35年も前のものだったのです。長くて20歳ていどとされるアオサギの寿命にあって35年の長寿は俄には信じられません。しかし、これが6度捕まってなお生き延びたあのアオサギだったとすれば、もしかして、と思わざるを得ないのです。もはや神話の世界の話かもしれませんが…。
2010/04/13(Tue) 06:01 まつ@管理人 Re: 狩猟の歴史
今回は第4回目です。前前回は食料目的での狩猟、前回はスポーツハンティングについてまとめてみました。では、今回は? 時期は1800年代の終わりから1900年代の初頭にかけて、場所はヨーロッパ。世紀末のヨーロッパということになれば…、そうです、シラサギの羽をふんだんに使ったあの婦人用の帽子、その飾羽を目的とした狩猟の話です。
当時のヨーロッパにおける婦人のおしゃれ度は、羽飾りでいかに他を圧倒するかで決定されていたと言います。さらに、そのファッションは鳥の羽毛を用いるだけでなく、鳥そのものを飾り付けるほどにかなり奇抜なものになっていたのだとか。人々の羽毛に対する興味は一大産業を生み出します。当時、羽毛関連の仕事に従事する人がパリだけで1万人を下らなかったと聞けば、この巨大ビジネスの一端が分かるかと思います。そして、その羽毛の中でとりわけもてはやされたのがシラサギ類の飾羽だったのです。
では、当時どれほどのサギたちが殺されたのでしょう。たとえば、1902年のロンドンでは、ひと束30オンスのシラサギの飾羽1608束が売られています。合計すると約48,240オンス。1オンスの飾羽を得るには4羽のシラサギを殺さなければなりません。つまりこれは、192,960羽のシラサギを殺したということになるのです。あるいは、南アフリカの一国だけで、たった1年間で150万羽のサギが殺戮されたという報告もあります。シラサギにとっては悪夢の時代というほかありません。とんでもなく大きな数が普通に並ぶので感覚が麻痺してしまいますが、たとえば、アオサギの現存個体数が全世界で約250万羽と言えば、当時のシラサギに対するホロコーストの規模が少しはイメージできるのではないでしょうか。
こうして、飾羽目当ての狩猟は人跡未踏の繁殖地にまで及び、多くのコロニーが壊滅、ヨーロッパのシラサギ類はほとんど絶滅の縁にまで追いやられました。さらに、この飾羽収集はヨーロッパだけでなくアジア、アフリカ、アメリカにまで及び、数十年間にわたって全世界のシラサギを恐慌に陥れたのです。
もっとも、サギ類の羽の利用ということではこの時期が最初ではありません。その起源を辿れば、おそらくサギ類と人類の関係が始まった時まで遡らなければならないでしょう。以前、NHKのシルクロードの番組の中で、楼蘭の遺跡で約4000年前の女性のミイラが発見されたことがありました。そして、この女性の頭に飾られていたのが2本のアオサギの羽だったのです。楼蘭の国では、結婚式の前夜、一束のアオサギの羽を新郎から新婦へ贈る風習があったといいます。
もし、現代の私たちが楼蘭のアオサギの羽に詩情を感じ、世紀末の羽飾りの帽子に嫌悪感を抱くとすれば、それは両者の間に量の問題だけではなく何かもっと別の本質的なもの、自然への関わり方のようなものに決定的な違いを感じるせいかもしれません。
ともかく、サギたちの死体の一部を帽子につけて喜んでいた狂騒の時代は終わりました。けれども、サギたちの悲劇が完全に無くなったわけではありません。その規模は小さくなったとはいえ、悲劇はその後も繰り返し繰り返しサギたちを襲っています。狩猟ではなく駆除と名前を変えて。その話はまたいつか。