アオサギを議論するページ

サギの光

《注意》この記事は4月1日に書いたもので、内容はまったくの出鱈目です(2段落目までは本当)。同日、長文にもかかわらず最後まで騙されて読んでいただいた方々に心より感謝申し上げます。

北海道のアオサギは、いま一番美しい時期を迎えています。くちばしや脚は鮮やかな朱色やオレンジに、目先の部分は紫やすみれ色に染まります。顔をアップで見ると、その配色の派手派手しさに本当に日本の鳥なのかと疑ってしまうほどです。

ところで、これは婚姻色といってよく知られている現象ですが、一般にはそれほど知られていない形態的な特徴として粉綿羽というのがあります。これはサギ類など少数のグループだけに知られているもので、胸部などにあるぼろぼろと崩れやすい一群の羽毛のことを指します。このパウダー状のものをくちばしで身体に塗りつけることで、汚れを落としたり防水効果を高めたりできるわけです。

さらに面白いのは、この粉綿羽が暗いところでは微弱な燐光を発すること。まれに真っ暗なところでアオサギが白っぽく光って見えることがありますが、この光は身体に散布された粉綿羽によるものです。いわゆる、英語でいうところの”gleaming heron(光るサギ)”という現象ですね。この現象については、私もここで説明できるほどの知識は持ち合わせていませんが、この粉綿羽にルシフェリンという物質が多く含まれていることが原因とされています。ルシフェリンはホタルが発光するもとにもなっている物質で、酸化されることにより光を発します。もっとも、アオサギの粉綿羽はホタルのようには強く光りません。よほど条件が揃った上で、そう思って見てはじめて分かるていどです。ただ、現象としてはホタルの光と同じと考えて間違いありません。

ところが、この「光るサギ」、昔はもっとはっきりと光っていたようなのです。その原因は彼らが餌とする魚に求めることができます。粉綿羽へのルシフェリンの蓄積量は、アオサギが摂取する魚の種類によって変わってきます。これが海水魚(とくに青魚)と淡水魚では桁違いに異なり、海水魚のルシフェリン濃度のほうが圧倒的に高いのです。ご存知のように、現在、国内のアオサギは、餌場のほとんどを河川や湖沼、水田といった内水に依存しています。このため、海産魚に含まれる高濃度のルシフェリンを摂取する機会があまり無く、現在の私たちが光るアオサギを目にすることはまずありません。一方、少なくとも昭和初期までのアオサギは海岸近くに営巣し、もっぱら海の魚を食べていたことが知られています。当然、彼らは光っていたはずです。

IMG_0769江戸時代の絵師、鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』に「青鷺火」という妖怪(右の写真)を描いていますが、これなどまさにルシフェリンによる発光現象を示したものに他ならないでしょう。もちろん、当時はこうした知識があるはずもなく、夜になって妖しく光る鳥がいれば、妖怪以外に説明のしようが無かったのでしょうね。こうした現象は明治期になってからも記録があり、たとえば、かの南方熊楠も『南方随筆』の中で、夜間、アオサギが光りを発しながら飛び回る様子を克明に描写しています。

不思議なのは、なぜ彼らがその後、海の魚を食べなくなったのか、その生息域を海岸から内陸にシフトしてきたのかということです。以下は私の推論で恐縮ですが、ひとつには人が夜を明るくしてしまったのが原因ではないかと考えています。アオサギが妖怪だった江戸時代を含め、かつて日本の夜は真っ暗でした。それは海岸であろうと内陸であろうと同じです。一方、アオサギは子育てに忙しくなると、多量の餌をヒナに運んでくるため、夜間でもコロニーと餌場を行き来しなければなりません。これが真っ暗だと不都合極まりないのですが、幸いにも海の魚を食べている彼らは自ら光ることができるため、コロニーは夜でもうすぼんやりと明るく、容易に位置を特定できたと思われます。ところが、やがて人の生活習慣は変わり、夜でも巷に灯をともしはじめるようになります。こうなると、人の点した灯りがサギたちの光の代用となり、自ら光らなくても夜間の行動に不自由がなくなります。つまり、海産魚依存の食性から解き放たれ、内陸の淡水魚やカエルだけで問題なく暮らしていけるようになったのではないかと思うのです。もしこの推論が正しければ、人間が夜を奪ったことで妖怪がいなくなった実例のひとつと言えるかもしれません。

ところで、江戸時代に邪険にされていたアオサギも、ずっと時を遡って上代の頃には、まったく違う見られ方をされていたようです。奈良時代に編纂された『佐渡國風土記』に次のような一文があります(ただし、『佐渡國風土記』そのものは現存しないため、以下は鎌倉時代に編まれた辞書『塵袋』からの引用)。

佐渡の國の記に云はく、浪濱郡、鷺の浦に、方一町ばかりなる鷺山あり。日暮るれば、これ乃(すなわ)ち光る也。色青く焔なしと雖(いえど)も、其の明きこと漁火の如し。歳毎の春、村里の士(をとこ)女、酒を携へ琴を抱きて、手を携へ登り望(みさ)け、酒飲み歌ひ舞ひて、曲(うた)尽きて帰る。凡(すべ)て、鷺山の貴く奇しきこと、神世の時のみにてはあらず。仍(よ)りて鷺の浦と號(なづ)く。

一町四方の鷺山ということですから相当大きなコロニーですね。この鷺山を慕って、毎春、その下で人々が宴を催したということです。今で言えば、夜桜の代わりにコロニーを愛でたということでしょうか。ぼうっと青白く光るコロニーの下で人々がさんざめく。人とアオサギのなんという素晴らしい関わり方でしょう。万葉の人々の大らかな息遣いが今にも聞こえてきそうです。

昨今、どこもかしこも夜が明るくなって、アオサギにかつての面影が見られなくなったのは返す返すも残念です。ただ、内陸に水域をほとんどもたない島嶼部では、もっぱら海の魚が餌となるため、今日でも光るサギがわずかに残っています。たとえば、モーリタニアやモロッコ沿岸の島嶼部。ここには今も”gleaming heron”の名に恥じぬサギたちがごく少数ながら生息していて、ヨーロッパのバーダーたちの間で人気のバーディングスポットになっています。とくに、この地域のアオサギは、その餌(モーモロというエビ)にルシフェリンの異性体で発光力の強いセレンテラジンが多量に含まれているため、闇夜でなくても光っているのがはっきり見えるということです。

一方、日本でもそういった場所が皆無ではありません。小笠原諸島の兄島ではごく最近まで光るアオサギの小規模な個体群が残っていました。その個体群が、今から20数年前に兄島に空港が建設されるというので、存続が危ぶまれたことがありました。空港の計画は後に無くなりましたが、当時、自然保護の観点から全国的にかなり大きく取り上げられたニュースでしたから、そのとき話題になった光るサギについてもご記憶の方は多いのではないでしょうか。私はその前後に小笠原を訪ねたことがあり、兄島のコロニーにも立ち寄ってきました。当時、兄島のアオサギは7つがいにまで減っており(後にコロニーは消滅)、おまけに満月に近い夜だったこともあって、期待したアオサギは思ったほどの光りようではありませんでした。ただ、その光の中に冷たさだけでなく確かな暖かみを感じたことだけは鮮明に記憶しています。やはり、人工物の光と生き物が発する光には、自分が生き物であるからこそ感じられる何か決定的な違いがあるのです。

そのとき撮影した古い映像がありますので、興味のある方は御覧いただければと思います。後半に写っているのは、父島のお土産屋さんで売っていた「光鷺まんじゅう」です。なお、画質が悪いため、人によってはまったく別のものに見えるかもしれません。
⇒ 兄島のアオサギの映像

春の訪れは予定どおり

DSCN0023札幌は今日も雪でした。3月にまだ130センチも積雪があるのは67年ぶりだそうで。けれども、アオサギはそんなことにはおかまいなく、今年も予定どおりやって来ました。もっとも、来てみて少し早すぎたかなと後悔しているかもしれませんが。

ここ札幌周辺のコロニーでは、例年3月5日を過ぎれば、いつアオサギが来てもおかしくありません。遅い年でも3月半ばまでには必ず第一陣の渡りがあります。そして、今年はというと、おとといの3月8日に初飛来があったようです。札幌の平岡コロニーに11羽、そこから14キロほど離れた江別の冬ねぐらに16羽が今年初めて確認されました。じつは、江別のほうは10羽ほどが越冬していたので、16羽のうち何羽かは越冬アオサギが含まれているはずです。ただ、冬にいるアオサギの数よりも増えたことは明らかで、南からの渡りがあったことは間違いなさそうです。

DSCN0010この時期、アオサギは少数のグループで渡って来ます。札幌周辺では、最初に飛来するのは十数羽ていど。たとえば江別のコロニーの場合、最盛期には親鳥だけで350羽ほどになりますから、十数羽というのはほんの一握りのサギたちです。そうとう気合いの入った猛者たちなのでしょう。けれども、早く渡って来たからといって、すぐに巣作りに取りかかれる訳ではなく、天気が荒れているうちは近くの水辺で徒に時間を潰すしかありません。そもそも巣はまだ雪帽子を被っていますし、それが融けるまでは使い物になりません。たまたま穏やかで暖かな日が春まで続けば、他のサギたちに先駆けて巣作りをはじめるメリットが得られますが、そうでなければ、ただの骨折り損の草臥れ儲けです。

今年の先発隊は、例年通りの時期に渡って来たものの、渡って来た翌日、翌々日といきなり暴風雪に見舞われ、とりあえずは散々な出足でした。一番乗りを果たした彼らの果敢さが報われるのかどうか、それは3月の気まぐれな天気次第。そんな彼らの後を追って、これからゴールデンウィーク頃にかけて次々にアオサギの群れが渡って来ます。今年もまたアオサギシーズンの幕開けです。

アオサギ写真展、開催中

以前にもお知らせしました内海千樫さんのアオサギ写真展が、只今絶賛開催中です。期間は2月7日から13日まで。本日10日(日)はお休みのようです。

【日時・会場】
会場:アイデムフォトギャラリー[シリウス](地下鉄丸ノ内線 新宿御苑前駅徒歩1分)
〒160-0022 新宿区新宿1-4-10 アイデム本社ビル2F
期間:2013年2月7日(木)~2月13日(水) 開館時間:10:00~18:00(最終日は15:00まで)
休館日:日曜日  入場料:無料

会場は新宿ということで、北海道の私はお知らせするだけで訪れたわけではないのですが、すでに行かれた方が写真展の様子をブログに詳しく報告されていますので、参考までに貼っておきます。⇒ 『ママチャリ鳥見日記』 こちらは写真展会場のスタッフによる紹介。⇒ 『シリウスブログ

内海さんのアオサギの写真は全て北海道で撮られたものです。近頃は手が届くような距離にいても逃げないアオサギが多くなってきましたが、北海道では百メートル以上離れていても目が合えば警戒して飛んでいくサギたちがほとんどです。そんなアオサギの様子を間近に撮ることがどれだけ大変であるかは、警戒心の強いアオサギを目の当たりにしたことのある人なら容易に想像できるのではないかと。

内海さんは東京生まれ東京育ちということなので、今回は凱旋展ですね。なお、内海さんのお話では、いずれは札幌でも開催したいということですので、楽しみに待ちたいと思います。

今回の写真展については、先月、北空知新聞にかなり詳しい記事が載りました。記事の内容は『アオサギ関連新聞記事』のほうに保存していますので、興味のある方は御覧いただければと思います。

脱走フラミンゴ、いのちの行方

フラミンゴが旭山動物園を脱走したのが去年の7月18日。あと1週間ほどで、その脱走劇も半年になろうとしています。あのフラミンゴはこの寒い冬を、いまどこで、何を思って過ごしているのでしょうか。

本来、このサイトはアオサギのことしか書かないのですが、フラミンゴがコムケ湖での一時期をアオサギとともに過ごしたという誼もあり、今回は特別にフラミンゴのためにページを割きたいと思います。

先日、テレビ東京で、旭山動物園のドキュメンタリー番組が放映されました。その中で坂東園長は、脱走中のフラミンゴは、本来、日本にいない生き物なのだから、捕獲できなければ駆除(射殺)も止むなしとの発言をされました。これは、そうですかと打ち捨てておけるような類の発言ではありません。影響はフラミンゴにとどまらず、日本にいない生き物全体に及びますし、生き物のいのちをどう考えるのかという根本的な問題に触れることでもあるからです。そもそも、フラミンゴを駆除する正当性があるのかという疑念が私にはありました。旭山動物園の園長だからといって、常にその発言が正しいわけではありません。そこで私は、昨日、坂東園長宛に問い合わせのメールを送りました。内容は、駆除の根拠、社会的合意の必要性、情報の開示に関するものです。これは要約すると論旨が理解されなくなりそうなので、少々長くなりますが、以下にその全文(前文、末文を除く)を掲載します。

お尋ねしたいのは、フラミンゴを捕獲できなければ駆除も止むなしとの判断に至った根拠です。今月6日にテレビ東京で放映された番組の中で、坂東さんご本人が同趣旨のことを語っておられました。その後、私は、関係する法律、条例にいたるまでことごとく目を通してみましたが、今回のケースで駆除が許可される蓋然性のある規定はひとつも無いと解釈しました。

坂東さんが駆除の根拠にされたのは、平成16年に環境省が告示した『展示動物の飼養及び保管に関する基準』ではないかと考えます。これは告示ですから、本来、書かれた内容に法規的性質はありません。ただし、この場合は、動物愛護法の規定を補充する内容であることから、実質的に法規の性質を持つものと考えられます。この基準中、「終生飼養等」の項に、展示動物が「人又は他の動物に著しい被害を及ぼすおそれのある場合」は、管理者は殺処分が可能であると解釈できる一文があります。もし今回のフラミンゴがこのケースに該当するのなら、最終的には駆除も止むなしとした坂東さんの判断は妥当だと私も納得できます。しかし、影響の程度が「著しい」ものでない場合、この基準は駆除を正当化するものではありません。

坂東さんが駆除が止むなしとお考えになったのは、この影響の程度が「著しい」と判断したからだと推察します。私は「著しい」とは考えません。その論拠を以下に説明します。

まず、人への影響についてです。人に危害を加える可能性、農林水産業へ経済的な被害を及ぼす可能性、いずれも全く無いとは思いませんが、逸走しているフラミンゴが1個体であることから、その影響は極めて軽微であると考えます。

つづいて自然生態系への影響です。これまでのご発言から判断して、坂東さんはこの点をもっとも重視されていると感じました。在来種でない生き物が自然生態系に悪影響を及ぼす可能性があることについては私も異論ありません。しかし、今回の場合、フラミンゴは1個体であり、他の動物への影響は限定されています。また、国内の自然環境には、他にヨーロッパフラミンゴが生息していないことから、野外で繁殖し子孫を増やす可能性は現時点でゼロです。また、国内には近縁な種も存在しないことから、異種間での交雑が起こる可能性もありません。さらに、渡りの可能性が考えられる東南アジアやロシア極東についても、フラミンゴ科の鳥類は生息しておらず、国内の場合と事情は変わりません。

一方、これらは現時点での状況であり、今後、逸走中のフラミンゴが生存しつづけた場合、別の新たな逸走フラミンゴとつがいになるなど、将来、懸念される事態がまったく起きないとの保証はありません。しかし、そうしたことが起こる確率は非常に小さいと私は考えます。

以上のことを総合的に考慮した結果、私は、今回の逸走フラミンゴによって「著しい」被害を予想するのは困難であるとの結論に至りました。つまり、私としては、坂東さんの今回の発言内容に、駆除を正当化するのに十分な根拠は無いと考えます。

私は、動物のいのちの尊厳に対する坂東さんの認識を疑うものではありません。ただ、動物に対して個人が抱く意識や感情はさまざまであり、この種の問題で重大な決定を下す際には、その判断に対して人々から広くコンセンサスが得られていなければならないと考えます。これが動物のいのちに対する考え方に大きな影響力をもつ旭山動物園の園長としての発言であればなおさらです。

平成18年に環境省が告示した『動物の愛護及び管理に関する施策を総合的に推進するための基本的な指針』に、「合意形成」について書かれた箇所があります。そこでは、「国民が動物に対して抱く意識及び感情は、千差万別」であり、外来生物の駆除等々、法に基づいて行われる行為においてさえ賛否両論があることを認めています。続けて、「個々人における動物の愛護及び管理の考え方は、いつの時代にあっても多様であり続けるものであり、また、多様であって然るべきものであろう。しかし、万人に共通して適用されるべき社会的規範としての動物の愛護及び管理の考え方は、国民全体の総意に基づき形成されるべき普遍性及び客観性の高いものでなければならない」としています。これは私もまったく同意見なのでそっくり引用しました。この指針を踏まえた上で今回の件を振り返ってみますと、「捕獲できなければ駆除も止むなし」との判断は、現段階で「国民全体の総意に基づき形成されるべき普遍性及び客観性の高い」考え方とは到底言えません。今回の問題に関しては、いまだ国民の同意が得られている段階にはないと考えます。

今回、坂東さんの見解はメディアを通して全国に発信され、すでに衆目を集める状況になっています。断片的なことしか伝えられないメディアの弊害とはいえ、視聴者には番組が放送したとおりの形でしか伝わりません。もともと日本にいない生き物は殺さなければならないという発言は、それが旭山動物園の園長の発言である以上、当然、法的にも正当性があるものと多くの人は捉えるはずです。私がもっとも危惧するのはまさにこの点です。そして、今回の坂東さんの見解が、逸走中のフラミンゴだけでなく、「もともと日本にいない生き物」全般に対しても適用されかねないことを懸念しています。

繰り返しになりますが、今回の件については、私は法的な正当性は無いと考えています。また、もし仮に正当性が認められるとしても、前述した「著しい」のていどの解釈をはじめ、議論すべき事項は多々残されています。こうした社会的コンセンサスが得られていない問題については、公での発言には慎重であるべきで、もしどうしても駆除が必要とのお考えであれば、法律上の正当性を含め広く議論し、予めコンセンサスを得ておく必要があると考えます。

そこで、最後に私からお願いがあります。今回の件に関する貴園の今後の行動計画について、その計画が必要であると判断された論拠とともに、何らかの形で公に示していただけないでしょうか。差し出がましい発言を許していただけるなら、今回の一連の出来事に対する貴園への非難の一部は、貴園が捕獲の理由を世間が納得できる形で示してこなかったことにあると私は思います。ことここに至っては、その生き物が日本にいないからという理由だけでは、もはや世論を納得させることはできません。捕獲を継続し、最終的には駆除しなければならないとの判断について、具体的で、誰もが正統と認める論拠が是非とも必要です。

なお、今回の出来事については、坂東園長ご自身がその経緯を『ゲンちゃん日記』で説明されています。ただし、昨年9月に書かれたものなので、それ以降のことは分かりません。また、今回問題にした番組はこちらのページに動画が貼られています。フラミンゴの話は23:27辺りから始まります。問題の発言の箇所では、坂東園長はそれを当然のこととして語っているのではなく、かなり逡巡されながら苦悩の果てに話された、そんな感じを受けます。番組だけを見ると、番組のつくりのせいもあり、どうしても坂東園長に同情する声が多くなるのは分かります。しかし、今回の問題は、動物のいのちをどう考えるのかという極めて重要な問いが含まれており、感情を差し挟む余地のないところできちんと議論されなければなりません。今回ここに載せた坂東園長への手紙が、建設的な議論をするための判断材料のひとつとして役立てれば幸いです。なお、この手紙に対する動物園側の対応については、何らかの動きがあり次第、ここでもお伝えしていきたいと思います。

動物愛護法関連の法令や基準には、「命あるものである動物」という文言が繰り返し繰り返し出てきます。単に「動物」とせず、あえて「命あるもの」と形容するのは、それが動物愛護法の核となる精神に他ならないからです。手紙の中で引用した『展示動物の飼養及び保管に関する基準』には、展示動物を止むを得ず処分しなければならないときでも、「動物が命あるものであることにかんがみ、できるだけ生存の機会を与えるように努めること」との一文があります。今後、今回の問題が議論されるにあたって、「命あるものである動物」の語に込められた思いが、普遍的価値をもつもとして再確認されることを切に願わずにはいられません。

【追記】これを書いて数時間後、坂東園長から回答の電話をいただきました。駆除は法的にもできないし、するつもりも無いとのお話でした。番組では、坂東園長の意図するところとは別の形で発言の内容が伝わってしまったとのことです。如何ともしがたいメディアの弊害ですね。坂東園長には本当に丁寧に説明していただき感謝しています。とりあえず、これでひと安心です。昨日は浦河のほうで動物写真家の方がフラミンゴを目撃したとの情報もあります。今回の出来事がハッピーエンドの結末を迎えられるよう祈っています。

ページの先頭に戻る